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2016年5月 4日 (水)

継体天皇の謎(その38)

継体天皇の謎(その38)

第4節 葛城山麓の遺跡(1)

現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約120kmの高速道路である。 そ こで、橿考研は平成21年7月から道路計画地の約6500平米について発掘調査を実施してきた。橿考研は、平成22年1月21日、それまでの発掘の成果をマスコミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館か祭りの場の可能性のある遺構が見つかったことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この調査地を「秋津遺跡」と名づけた。
秋津遺跡の南西方向には、この地方で有名な古墳がある。 宮山古墳という。御所市大字室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。 5世紀前半の築造で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされているが、私は、前節で述べたように、葛城襲津彦を武内宿禰の子・葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)であると考えているので、宮山古墳は葛城襲津彦の子孫の誰かだと思う。
葛城襲津彦に関する逸話は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀などに記されていて、実に魅力的な人物である。 4世紀から5世紀にかけて対朝鮮外交や軍事に携わり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている。彼が連れてきた渡来人たちは、葛城山麓 に住み着き、鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとされている。
渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、記紀によれば大王家のそれと肩を並べるほどだった。そうした経済力や政治力を背景に、葛城氏は5世紀の大王家と継続的な婚姻関係を結んだ。また、記紀によれば、襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んでいる。私の考えでは、「 襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ) 」という記紀の記述は、「葛城氏の姫・ 磐之媛(いわのひめ) 」 と訂正しなければならないが、ともかく葛城氏と天皇とは継続的な婚姻関係があったことは間違いない。こうした婚姻関係から、歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと指摘された。

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