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2016年5月12日 (木)

長谷川真理子の考え(その1)

長谷川真理子の考えについて(その1)

男と女の違いの問題を考える場合、長谷川真理子の「オスとメス・・・性の不思議」(2009年講談社)は貴重な示唆を与えてくれる。

長谷川真理子は「オスとメス・・・性の不思議」(2009年講談社)の中で、次のように述べている。すなわち、

『 人の行動の多くは、単なる遺伝子型の発現とは考えられません。ヒトが家の掃除をするのは、ミツバチと同じように「お掃除遺伝子」を持っているからだと考える人はいないでしょう。人の行動のすべてが遺伝子機構から解放されているとは思いませんが、人の行動の多くが、学習や経験、教育、洞察、ものを理解した上で個人が行なう判断などによることは、誰も否定できないでしょう。つまり、人の行動を生物学的に考察するとしても、その行動の背後に、それを支配する遺伝子があるためであるかどうかは、慎重にならなくてはいけないということです。
 それでは、人が行う行動と遺伝子との関係があいまいであるとして、人の行動は、個人のまったく自由意志に基づくのでしょうか? いいえ、人の行動の多くは、「文化」というものによって規制されています。ヒトの行動が遺伝子的束縛からどれほど解放されているにせよ、そのかわり今度は、かなりの文化的束縛を受けています。そして、文化が人間の行動にどのように影響を及ぼしているのかは、なかなか一筋縄ではいかない複雑な問題なのです。』

『 誤った立場の一つに文化万能論があります。ヒトは他の生物とはまったく異なる存在であり、生物学的説明はヒトにはまったく通じない。生物学から学ぶべきものは何もないという態度であり、この立場は、とくに一部のフェニミストの間に見られ、生物学的説明は、この立場の人々からは、現状の社会悪を肯定する議論として警戒されます。』

『 現象がなぜ生じるかを科学的に説明することと、そういう現象が起こるのは良いことだと思ったり、しかたがないとあきらめたりすることとは別の問題です。現象に科学的説明がつけられるということと、その現象を正当化することとは別です。』

『 自然界からの適当な例だけを挙げていけば、それはいくらでも都合のよい話を展開することができますが、それは自然科学とはまったく無縁のものです。』

『 ヒトの行動のどこまでが遺伝子的に決まったもので、どれほどが学習によるのか、そんなことはどうせはっきりとはわからないでしょう。』

『 いずれにせよ、特定の行動を支配する遺伝子が発見されない限り、遺伝子か学習かを決定することはできません。』・・・と。

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