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2016年5月18日 (水)

継体天皇の謎(その46)

継体天皇の謎(その46)

第4章 継体天皇の大和入りを支えた多賀の豪族(4)

近江毛野(おうみ の けぬ)という継体天皇の将軍がいる。 近江毛野は、太田亮の『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)によると、武内宿禰の後裔で波多氏の支族であるとされている。私もそう思う。波多氏は、後年そう名乗ったのであって、秦一族である。近江毛野は、継体21年、新羅によって奪われた南加羅などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。しかし、物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、毛野はようやく任那の安羅に赴任して、新羅との間で領土交渉を行った。その後の行状については、この際、本筋から離れるので省略して、本筋として 新羅との間で領土交渉を行った継体天皇の将軍であるという点に注目してもらいたい。

継体天皇擁立に「多賀の豪族」(秦一族)がいる上に、継体天皇の将軍に秦一族がいるが、継体天皇擁立の立役者は、大伴金村である。大伴金村は、記紀では、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされるているが、その実態はよく判らない。物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。両者には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたらしい。いずれにしろ、当時の最大の実力者だったのである。
仁賢天皇11年、仁賢天皇の崩御後に大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。日本書紀によると継体天皇6年に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。継体天皇21年の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、大伴金村の権勢は衰え始める。しかし、大伴氏は、蘇我氏と一定の距離を置きながらも良好な関係にあったので、物部氏や秦氏のように、蘇我氏によって滅ぼされることはなかった。

物部氏と秦氏は、応神天皇擁立の時もそうだったが、継体天皇擁立に際しても、力を合わせて大伴金村に協力したのである。もちろん、物部氏は三輪王朝からの重臣であり、秦氏はその支援の下にあったのであって、対等の立場ではなかったが、まあいうなれば一心同体で大和朝廷に尽くした氏族である。秦氏が物部氏の支援を得て応神天皇擁立に立ち上がったその様子については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」に詳しく書いたので、それを是非ご覧いただきたい。

以上のとおり、「多賀の豪族」が継体天皇の大和入りに際し、大伴氏、物部氏と協力しながら秦一族を挙げて力を発揮するのである。

「多賀の豪族」については、その概略を上述したが、「井出の里」の豪族でありより詳しい内容については、是非、次をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tagajin.html


あわせて、「井出の里」という私のホームページもご覧いただければありがたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/idesato.pdf

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