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2016年5月29日 (日)

天皇の権威(その4)

天皇の権威について(その4)

第4章 北条泰時

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権・北条義時の討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことである。
上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴える大演説を行ったことで、で彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士は結集することとなった。
政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣することとした。しかし、あまりも急な派兵であったため、北条泰時を総大将とする東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向する。 その後、幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がったという。北条朝時率いる北陸道軍4万騎も砺波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。 武田信光率いる東山道軍5万騎は木曽川で京方2000騎を撃破した。美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。鎌倉方の進撃が予想以上に早く、西国の武士たちが上皇の命を受けて京方に参戦する前に承久の乱は終わってしまった。いかに後鳥羽上皇の水戸通しが甘かったか・・・・。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。
義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どの ような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には 朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手 に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか?
後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分した。これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
山本七平は、その著書「日本的革命の哲学」のなかで、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時の とった行動を「ベタホメ」しているさまを紹介している。 そして、水戸学は、すべての原因が「その始めを正さざる」にあったとして、批判は専ら後白河法皇に向けている。

明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる『栂尾明恵上人伝記』によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から 出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うこと になる。こうなると『貞永式目』にも明恵上人の思想が深く反映していることになる。

以上の全文は、次のとおりである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenkeni04.pdf

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