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2016年5月 2日 (月)

継体天皇の謎(その37)

継体天皇の謎(その37)

第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり(10)
(4)葛城王朝の誕生(2)

応神天皇より前の時代において、秦氏は、物部氏の支援の下、葛城地方にそれなりの勢力を持っていたと思われるが、物部氏は、葛城氏が葛城地方に拠点を構えることに反対していたのではないか? それを秦氏が説得して、葛城氏を葛城地方に引き入れたのではないか? その時、秦一族のかなりの人たちが随行したものと思われる。

物部氏と葛城氏との反目が応神天皇の時代まで続くが、秦氏はその間にあって随分苦労したであろうことは十分想像できる。

応神天皇東遷の時、葛城氏はすでに葛城に来ていた。したがって、秦氏は、応神天皇擁立に当たって葛城氏と物部氏の連携を成し遂げた。

王朝交代説というのがある。これは、鳥越憲三郎(1914~2007、大阪教育大学名誉教授)らが提唱していた説が代表的なものであるが、神功皇后の時に河内王朝が成立したというこの説については、私は否定的である。物的な証拠や記録はないし、そもそも神功皇后は架空の人物である。
私は、歴史の連続性というものを重視していて、邪馬台国は葛城王朝の時代を経て大和朝廷に繋がっていると考えている。すなわち、邪馬台国は、台与の時代に三輪王朝となったが、葛城王朝とは対立しながらも並存していたのである。やがて三輪王朝は、応神天皇を迎えて大和朝廷が誕生する。


蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭してくる豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。
蘇我氏は、そのために葛城氏を裏切るのだが、ともかくそうした経緯を経て、十数年後に継体天皇は、葛城からはほど近い「磐余の玉穂宮」で即位する。そして、その2年後に継体は 新羅・磐井の連合軍と戦っている。そのころの磐井は、勢力を伸ばし、北九州をほとんど制圧していた。一方、朝鮮半島では新羅が倭国と関係の深い加羅を併合し始めていた。継体天皇はこれと戦ったのである。いわゆる磐井戦争は、畿内からは物部氏、大伴氏などの軍事力が主力であった。戦争は1年ほど続き、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が御井(みい)で磐井を破った。この段階で、大和朝廷は、天皇を中心にした、物部氏と蘇我氏の二大巨頭体制ができ上がる。葛城氏は完全に衰退してしまうのである。葛城氏に蘇我氏が取って代わったということだ。かくて、葛城の主は蘇我氏となったのである。



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