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2016年5月23日 (月)

山地拠点都市構想(その150)

山地拠点都市構想(その150)

第6章 山地拠点都市構想の実現に向けて(26)
第4節 「美しい都市」を目指して(5)
2、「美」とは?(2)
(2)景観問題は何が問題なのか?(1)

景観問題は大変重要な問題だが、具体的に何が問題なのであろうか? 立法上の問題や司 法上の問題もない訳ではないが、ここでは行政上の問題として景観問題を考えることにし たい。 美しい景観や風景は国民の財産である。それらを公共財といっていいかどうかわからない が、公共的な性格を持っていることは間違いない。したがって、美しい 景観や風景を守 りまたは創りあげて行くことは行政の責任である。もちろん地域住民と行政との役割分担 というのはあるけれど、両者の繋がりがうまくいってい ないと良い行政は行ない得な い。現在、私の見るところ、行政側に景観問題の認識が希薄であるし、地域住民と行政と の繋がりも脆弱である。行政側に景観問題 の認識が希薄であれば、景観問題に関する地 域住民と行政とのコミュニケーションがうまくいかないのも当然であり、私は、景観問題 を煎じ詰めて行けば、結局 は、景観に関する行政側の認識が希薄であるということに帰 するように思われる。なぜ、景観に関する行政側の認識が希薄なのか? そこを皆さんに も是非考えて欲しい。私も行政側にいた人間だが、行政側の言い分もある。景観についてしっかり勉強したいのだが、土木系の学生に景観や風景のことを教える人もいないし、 教科書もない。私に言わせれば大学というか学者がさぼっている。

佐藤康邦と安彦一恵との共著に「風景の哲学」(2002年10月、ナカニシヤ出 版)という本がある。「風景」について実に多数の著書が刊行されているが、 総合的な見方に欠けているので、哲学としてその足らざるところを考えて行こうということで、この本を出版することになったのだそうだが、私はこの本を読ん ですっかり考え込んでしまった。「風景」について実に多数の著書が刊行されているのに何故総合的な見方が欠如 しているのかということと、そういう問題意識 から書かれた筈の「風景の哲学」という本ですら総合的な見方が欠如している、それな何故なのか? 私はがっくりしてしまっ た。こりゃもう病膏盲だなあとい う感じである。

  安彦一恵は、景観の善し悪しは好き嫌いの問題であるというようなことを言っている が、何を寝ぼけたことを言っているのかと思う。哲学かなんか知らないけれど、難しい ことをひねくり回して、景観の善し悪しは好き嫌いの問題であるという結論を導きだして いる。しかし、その結論は間違っている。景観とか風景とい うものは、よほど感性を磨 かないと「目利き」はできないのであって、画家や音楽家や詩人の感性に学ぶべきはもち ろんのこと、芸術人類学的に学ぶところも 多々あるのである。

先にも申し上げたが、『 風景には、「現実の風景」と「風土に根ざした風景」と 「精霊に根ざした風景」があるというのが私の考えだ。盆栽や箱庭などの縮景や見立ては、実際に見えるも のの奥に、それよりさらに意味のあるものを感じ取ろうとするもの である。「現実の風景」から「風土に根ざした風景」を感じ取る。これは文化の問題である が、さらに「現実の風景」から「精霊に根ざした風景」というか「古層の神」を感じ 取ることができれば、ハイデガーのいう「投企」が始めるかもしれない。も しそうなれ ば、そこから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めることができる。これはもう単なる文化を超えた問題である。風景と景観、風景と風土、 風景と精霊、これらの問題 は極めて大事な問題である。』
  実際に見えるものの奥に、それよりさらに意味のあるものを感じ取ることができるか どうか。そこが問題だが、知識や感性によって見方が変わって来るというの は、景観や
風景の場合も見立てなどの場合も同じであろう。かかる観点から「見立て」に関する森岡 正博の説明をここに紹介しておきたい。「見立て」は作為が強く、景観や風景とは同列 に論じられないが、ものの感じ取り方については知識と感性が関係するという点を私は言 いたいのであって、安彦一恵のように、景観や風景の善し悪しを好き嫌いの問題で済まし てもらっては困るのである。森岡正博が「見立ての論理学」というページで言っているよ うに、観察者の力量が関係して来る。
http://www.lifestudies.org/jp/mitate.htm

彼は言う。すなわち、 『 観賞者が見立て絵の前に立つ。観賞者は、その絵の中に描かれている絵柄を認知す る。彼はこの絵が「見立て絵」であることを知っているので、絵の中に後景を暗 示する 何かの手がかりがないものかどうか、調査する。調査をしているうちに、絵の中の白象が 「普賢」を暗示していることに気付き、彼は一瞬にして前景の遊 女の姿に後景の普賢を 重ね焼きにして見ることができるようになる。こうして彼は、遊女の絵を、普賢を見立て た「見立て絵」として観賞できるのである。   このように、見立て絵の観賞とは、制作者が絵の中に仕掛けた「掛け橋」を手がかり に、目の前に描かれた前景をとおして、後景を自らの力で「発見」してゆく という能動的 行為である。見立て絵の観賞プロセスでは、この「発見」という契機が重要なものにな る。絵の中に仕掛けられた掛け橋と、その背後の後景を自分 の力で発見したときはじめ て、観賞者は前景をとおして後景を透かし見ることの快感と満足を真に得ることができる のである。   この構造を別の視点から見てみよう。観賞者は、絵の前景の中に「掛け橋」を発見す る。その瞬間、彼の想像世界の中には、その背後に隠されていた後景があり ありと立ち 現われる。これはちょうど、水を詰めこまれてぱんぱんに膨れあがったゴム風船に、針の 先でちょっと穴を開けたとき、その穴から水が勢いよくこち らに溢れ出てくる様子に似 ている。すなわち、絵の前景に「掛け橋」という通路を一点開いたとたん、その通路を 伝って、後景の意味世界が洪水のように観賞者 の想像世界の中へと溢れ出してくるのだ。 この、前景に穴を開けるとむこうから何かがやってくる、降りてくるという構造は、見立 て絵にとどまらず、芸術作品 一般が共有している普遍的な構造であると思われる。
  では、前景の中に掛け橋を発見し、その背後に後景を発見してゆくという、観賞の 「能動性」の本質はいったい何であろうか。それは、目の前にいま与えられて いるものを踏み台にして、いまここに存在しないものの方へと羽ばたこうとする精神である。すな わち、<いま・ここ>に縛りつけられた自己の限界性を一瞬解き放って、いま・ここに はない世界へと飛翔し、自分が体験したことのないもの、あるいは今後も決して体験でき ないようなものを、想像世界の内部で仮想体験 しようとする精神である。目の前にない ものを見、聞こえない声を聞こうとする精神こそが、見立て絵を存立させる原動力であ る。
  もちろんそれは、単に「見立て」だけが持っている論理構造ではなく、広く芸術作品 一般に見られるものである。人々が、見たこともない異国の情景や、神々の 姿を絵画に 描いてきのは、いまここで見えないものを何とかしていまここで見てみたいという願望が あったからだろう。ただ、見立ての場合は、その構造がもう 一段複雑になっている。つ まり、そのような情熱によって形象化された絵では満足せず、その絵の背後に、さらにも う一枚の絵を見ようとするからであ る。』・・・・と。



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