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2016年5月 7日 (土)

継体天皇の謎(その40)

継体天皇の謎(その40)

第4節 葛城山麓の遺跡(3)

何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着して鴨氏になったとされている。 一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとされる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津のすぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われる。
北葛城にいた葛城氏が紀州への路を確保するために南葛城に進出してきたのであれば、古代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突飛ではあるまい。葛城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南葛城からどのように駆逐したのだろうか。

南郷遺跡群は、金剛山東麓の広い範囲に及ぶ集落遺跡である。古墳時代中期(5世紀)に盛期があり、古代の豪族葛城氏の活動拠点のひとつであったと考えられる。丘陵頂部を中心に様々な性格を持つ遺跡である。渡来人系の工場従事者が居住した一般集落、武器・銀製品などの工房、生産する人を統括した渡来人の屋敷、倉庫群、導水施設、祭殿などがある。
また、平成17年に調査された極楽寺ヒビキ遺跡も遺跡群の範囲に含まれると考えられる。極楽寺ヒビキ遺跡では、石垣に囲まれた区画の中に巨大な建物が建てられ、集落全体の祭祀が行われていたと考えられる。ヒビキ遺跡については、次を参照されたい。

http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono/hibiki/katuragihibiki.htm

なお、遺跡ではないけれど、名所旧跡、すなわちハイデガーのいうところの「過在」として、「九品寺」について触れておかねばなるまい。この九品寺を知らずして葛城を語る事なかれと言われているからである。白州正子は、著書「かくれ里」(1991年4月、講談社)で、「九品寺は、居ながらにして大和平野の大部分が、視界に収まる大パノラマだ。葛城が神山とされたのも、葛城一族が大和に君臨したのも、このような眺望に触れると合点が行く。」と述べている。九品寺については、次のホームページが素晴らしいので、ここに紹介しておきたい。下の画像は、そのホームページのものである。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_09_07.htm

なお、白州正子は、上述の通り、葛城とは神の山の存在する所であると言っている。神の山、三輪の「三輪山」に匹敵するのがこの地では葛城山である。葛城山については、御所市が素晴らしいホームページを作っているので、その中から葛城山を中心とする名所旧跡を紹介しておきたい。
葛城の道:http://www.bell.jp/pancho/travel/katuragi-no-miti/index.htm
巨勢の道:http://www.bell.jp/pancho/travel/kose-no-miti/index.htm

二上山については、冒頭に述べた。二上山、葛城山、金剛山 という三つの山が葛城の聖なる山である。金剛山の象徴は、金剛山 葛木神社である。

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