« 老子(その41) | トップページ | 中国関係改善のきざし »

2016年4月30日 (土)

継体天皇の謎(その36)

継体天皇の謎(その36)

第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり(9)
(4)葛城王朝の誕生(1)

継体天皇の時に蘇我氏の裏切りによって没落するまで、葛城氏は、葛城王朝の王として、大和朝廷と並ぶ権力者として、隆々たる勢力を誇っていた。そのような葛城氏がどのようにして葛城に王権を築いたのか? 文献的にはまったく判っていない。これは、大和朝廷の誕生の秘密を解く上で致命的な欠陥となっている。つまり、邪馬台国が大和朝廷にどのように繋がっているのかということを理解するためには、邪馬台国の時代と大和朝廷の時代の中間の時代の様子が判っていないとダメであろう。そのためには、葛城王朝誕生の経緯を明らかにする必要がある。
そこで、私は、葛城王朝誕生の経緯を推定することとしたい。

前項(3)で述べたように、斯盧(新羅の前身)にいた秦氏の残党を葛城襲津彦が倭国に連れてきた。

その頃、秦氏の拠点は近江にあったので、葛城襲津彦は、一旦近江にに落ち着き、その後、大和の葛城に移動して、拠点を構えたのではないか?  確たる証拠はないが、論理的にはそう思える。葛城襲津彦がいきなり大和の葛城に拠点を構える理由が見つからない。

天忍日命(あめのおしひのみこと)は、記紀では日本神話の神になっているが、邪馬台国の一大卒、伊都国の王、五十跡手(いとて)のことですあろう。五十跡手(いとて)は、倭人であり、その子孫の多くは近江文化圏に住んだ。近江の秦氏や犬上氏や息長氏や安氏の他、越前の高向氏である。したがって、葛城襲津彦が斯盧から秦一族の残党を引き連れて近江にやってきた時、秦氏だけでなく、多くの同族がいた筈である。もちろん、それらのリーダーは秦氏であり、秦氏の意向によって、葛城氏は徐々に勢力を増していくのではないかと思われる。そして、将来の発展の地として葛城を選んだのであろう。そのことが応神天皇擁立に繋がっていく。



« 老子(その41) | トップページ | 中国関係改善のきざし »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/65245719

この記事へのトラックバック一覧です: 継体天皇の謎(その36):

« 老子(その41) | トップページ | 中国関係改善のきざし »