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2016年4月17日 (日)

継体天皇の謎(その29)

継体天皇の謎(その29)

第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり(2)
(1)秦一族について(2)
世阿弥は秦氏と血縁関係にある秦一族である。私は、先ほど「 秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。」と述べたが、秦氏の子孫に世阿弥が出ている。 明宿集」に秦河勝の子孫に三流あり、一は武人、二は猿楽、三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座の猿楽者と天王寺の楽人との間には根強い結縁意識があったらしい。
秦氏と血縁関係にある秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、このことを理解するには、物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守屋が蘇我蝦夷と入鹿に殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き継いでいくのである。

日本書紀でその伝承や記録が記されている秦氏の人物は、秦酒公(はたのさかのきみ)、秦大津父(はたのおおつち)、および秦河勝(はたのかわかつ)の3名である。ただし、秦一族で波多氏と称する氏族がおり、その祖先・羽田矢代宿禰ならびにその子孫・波多氏が日本書紀に出てくる。

その後、秦氏は「日本書紀」には出てこない。つまり、秦氏は政治の表舞台から姿を消すが、これは正史(日本書紀)と史実と一致する。しかし、応神14年に弓月王が渡来してきたというのは史実と合致しない。日本書紀は、応神14年のこととして、秦造(はたのみやつこ)の祖・弓月君(ゆづきのきみ)の次のような来朝説話を載せている。すなわち、この 年弓月君が百済からやってきたが、彼が奏上して言うには、「私は、私の国の120県の民を率いてやってきた。だが、新羅人に邪魔されてため、彼らを加羅国 (からのくに)残したまま来朝した」。そこで、天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、弓月君の民を連れてこさせたという。しかし、この日本書紀の記事をそのまま史実として信用することはできない。私は、弓月君が加羅国に一族を残したまま渡来してきたという点はその通り史実であったが、葛城襲津彦のことについてはその時代考証も含めて検討の余地があると考えている。

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