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2016年4月 8日 (金)

継体天皇の謎(その26)

継体天皇の謎(その26)

第2節 大和朝廷と百済との繋がり(3)
(2)応神天皇から継体天皇までの大和朝廷(1)

応神天皇(15代天皇)から 継体天皇(26代天皇) までに、仁徳天皇(16代天皇)を含んで10人の天皇がいる。
その内、仁徳天皇については、日本書紀に次のような記事がある
『 仁徳四十一年、「紀角宿禰を百済に遣して、始めて国郡の境界を分ちて、具に郷土所出(くにつもの)を録す。」という記事に続いて、百済王の王族の酒君(さけのきみ)が礼を失したので、鉄鎖で縛りあげて連れて帰ったが、結局天皇は酒君の罪を許した。』

日本書紀岩波版の注では、「津田左右吉はこの記事を大化元年の百済の使いに対する詔にある事実から作り出した話ではないかとしている。」とある。もしそうだとすると、仁徳紀には百済との交渉の記載は一切ないことになる。

仁徳紀に続く、履中紀・反正紀・允恭紀・安康紀には百済の文字は全く出てこない。

宋書に出てくる「倭の五王」ではないかと有力視されている天皇たちは、雄略天皇
(武)を例外として、百済には全く目を向けていなかったのだろうか。

雄略天皇については、ウィキペディアでは次のように説明している。すなわち、
『 平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群を大和朝廷に臣従させることであった。 特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、大和朝廷の優位を決定的にした。 『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂や伊勢の朝日郎を討伐した記事がある。
対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、翌年にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。
雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたという。
この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いていることになる。

以上のように、雄略天皇の活躍は目覚ましいが、それを支えたのは大伴室屋である。

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