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2016年4月 2日 (土)

継体天皇の謎(その23)

継体天皇の謎(その23)

第3章 わが国の古代朝鮮との繋がり(各論)(2)
第1節 渡来人について(2)

(3)第3の波 5世紀末~6世紀

雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)、熊津に遷都し、さらに泗沘(扶余)に都を遷す(538)など深刻な政治情勢に陥り、日本は機内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。

今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦部、須恵器をもたらした陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。

彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なった地域を形成していった。河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うようになる。渡来人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群集墳が築かれるようになった。



(4)第4の波 7世紀後半

新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。また、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって一度途絶える。日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。これに対応して百済人男女400を近江神崎郡、百済人男女2000名を東国、百済人男女700名を近江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも 高麗王若光 らが来ているが、高麗人687名を常陸国に、さらに高麗人1799名を武蔵国に配している。新羅とも国交が回復して、新羅人を下野国に配した。

高麗王若光については、次をご覧ください。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ooisokoma.pdf

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