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2016年4月 3日 (日)

継体天皇の謎(その24)

継体天皇の謎(その24)

第2節 大和朝廷と百済との繋がり(1)

(1)百済について

建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の古事記では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。
その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたと考えられているソウルの風納土城や夢村土城がその遺跡と考えられている。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。
369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。
応神天皇擁立は400年頃だから、その少し前370年頃から百済はヤマト王朝の友好関係を望んでいた。それ故に、ヤマト王朝最大の実力者物部氏のところに、秦氏を通じて七支刀を送ったのである。ヤマト王朝とは、邪馬台国を継承して成立した大和盆地に王朝で、全国各地の王権の連合体である。後漢書では、その連合体の王を大倭王と書いている。370年頃は、邪馬台国よりだいぶんあとになるので、大倭王が誰であったか、不明てある。しかし、後漢書では 大倭王がいたことになっている。
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。

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