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2016年4月26日 (火)

継体天皇の謎(その33)

継体天皇の謎(その33)

第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり(6)
(2)武内宿禰について(3)

伊都国が伝統的に朝鮮や中国との交流の拠点として重要な意味を持っていた。そのため一大率は、伊都国に常駐して北部九州を行政的・軍事的にも統括する任務や女王の行う外交の実務を厳格に監督し実行する任務を持っており、女王の命を受けて全ての外交実務を伊都国で掌握していたとされている。この点については学会でも定説となっている。日本の古代史を考える時、この魏志倭人伝の記述は、きわめて重要な歴史的事実として常に念頭においておかなければならない。
また、 考古学的知見によれば、 糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。つまり、 考古学的知見は魏志倭人伝の記述を裏付けているのである。

一方、日本側文献(記紀)の記述では、旧怡土郡付近は大化の改新以前は怡土縣(いとのあがた)が置かれ、日本書紀によるとその祖の名は五十跡手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされている。
「筑紫国風土記」逸文には五十跡手(いとて)が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。 高麗の意呂山(おろのやま) とは、私の解釈では、高句麗の王族のいた聖地のことである。 高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立した国であるが、その伝承がわが国にも伝わっていたのであろう。したがって、「筑紫国風土記」逸文では、高句麗の建国に関わる伝承を「天」という言葉で表現したものと思われる。天日鉾命とは、日本書紀における「天日槍(アメノヒボコ)」、古事記における「天之日矛(アメノヒボコ)」のことであろう。 アメノヒボコは、記紀において新羅の王子としている。もちろん、当時はまだ新羅は建国されていないので、記紀において新羅の王子とあるのはその前身・斯盧の王子という意味である。「筑紫国風土記」逸文ではアメノヒボコを高句麗の王子といい、記紀では斯盧の王子といい、両者に食い違いがあるが、アメノヒボコが朝鮮半島の王族であったことは間違いないだろう。五十跡手(いとて)はその子孫である。朝鮮半島の王族・アメノヒボコの子孫である 五十跡手(いとて)のルーツが朝鮮半島であることは間違いないと思われる。

以上縷々述べてきたが、最終的な結論として、武内宿禰、すなわち 五十跡手(いとて) は、卑弥呼の時代における朝鮮半島からの渡来系の人物であり、その子孫に波多氏(秦氏)、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏や高向氏がいる。


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