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2016年4月 9日 (土)

継体天皇の謎(その27)

継体天皇の謎(その27)

第2節 大和朝廷と百済との繋がり(4)
(2)応神天皇から継体天皇までの大和朝廷(2)

大伴室屋は、継体天皇擁立の中心人物・大伴金村の祖父に当たる人で、 允恭天皇 (19)→ 安康天皇 (20)→ 雄略天皇 (21)→清寧天皇(22) → 顕宗天皇(23)まで5代の天皇に大連として仕えた。まさに彼は大和朝廷における当時の実力者であったのである。具体的な業績としては、 雄略2年、百済の池津媛を犯した石川楯を、来目部に命じて処刑させている。

日本書紀 雄略天皇二年七月条によると、『百済の池津媛は、雄略天皇がまさに妃として召そうとしたときに、石河楯と通じた。雄略天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。』とある。

また、 日本書紀 雄略天皇五年四月条によると、『 百済の加須利君(蓋鹵王)は人づてに池津媛が焼き殺されたことを聞き、議って「昔、女を献上して釆女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と言った。そして、蓋鹵王が弟の軍君(こにきし)(昆支王)に「お前は、日本に行って天皇に仕えまつれ」というと、軍君は、「上君の命令に背くことはできません。願はくは、上 君の女性を賜わった後に私を派遣してください」と答えた。 蓋鹵王 は妊娠中の女性を軍君の妻として与え、「私の妊娠した女性は、既に産月に当っている。も し途中で産んだら、どうか母子を同じ船に載せて、行った先が何処であっても、速く国に送り帰してくれ」といった。そして、 蓋鹵王 は軍君と別れの挨拶を交 わして、日本の朝廷に軍君を遣わした。そして、軍君の妻が、 蓋鹵王 の言葉のように、筑紫の各羅嶋 (かからのしま )で出産した。そこで、この児を嶋君と名づけた。軍君は、母子を同じ船に乗せて、国に送り帰した。これが武寧王である。』との記載がある。

以上のように、雄略天皇の時にも、大和朝廷と百済の関係は誠に深いものがあったことが判る。

その後、大和朝廷は、何代もの天皇が続くが、ようやく武烈天皇という実力のある天皇が即位する。その擁立の立役者は大伴金村である。大伴金村は、多分、百済との関係を終始し、武烈天皇の擁立したのであろう。その武烈天皇が亡くなって、子供がなかったので、百済との関係の深い継体天皇を擁立したのであろう。その継体天皇擁立の中心人物・大伴金村は、仁賢天皇11年(498年)、仁賢天皇(24)の崩御後に大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇(25)を即位させて自らは大連の地位についている。

日本書紀には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれている。その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。また、武烈天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。





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