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2016年4月 7日 (木)

継体天皇の謎(その25)

継体天皇の謎(その25)

第2節 大和朝廷と百済との繋がり(2)
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[。
聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。

帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。この白村江の戦いによって百済の残党はことごとく政治の世界から消え去ったと考えて良い。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。



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