« 山地拠点都市構想の再検討 | トップページ | 継体天皇の謎(その31) »

2016年4月24日 (日)

老子(その36)

老子(その36)

老子の世界化(4)

『 現象学者フツサー ルとその弟子ハ イ デッガ一両者による世界概念についての有名な論争がなされたのは 周知の通りである。 ハイデ ツガーは、 フッサールの世界のように存在を世界という対象的存在に限定し、すべての存在を主観的分析によって解明される所産とすれば、その主観的対象をもたず、そのかぎりでは志向的体験とは呼び得ない「 不安」という体験などが、フッサールの定義では、世界をカバーで きず、世界として存在の場所を開明 する人間の現存在の原事実が開示される場所として現存在の存在構造に属するべきであると論じた。』

『 その後すぐに発表された「根拠の本質について」という著作の中で、 「 ひとがもし使用物つま り道具の存在者的 関連を世界と同一視し、世界内存在を使用物との交渉として解釈するとしたら、世界内存在としての超越を「現存在の根本構造」という意味で理解することは、むろん見込みがないと述べ ている。世界を道具として見るのは環境世界を分析する解釈の一つであって、世界を全体として見る場合、ま た、世界を主観的目的に照らして見る場合、この世界に対する解釈は従属的な意義をもつものでしかない、としている。つまり 「存在と時間 」における世界解釈は限定されたものであったことを述べている。(中略) ここで、ハ イ デツ ガーは f存在と時間』で示した世界とは全く異なった存在構造をもつ世界の可能性をすでに暗示している。』

『 1930年代になると、ハイデツガーは基礎的存在論における自然観を、当然のこととして 制作のために技術知の担い手である人間を世界の中心に据える人間中心主義と顕在的に潜在的に連動したものとみなし、ギリシャ時代に端を発する存在を現前性であるとし、自然を被制作性とする自然観と考えるようになる。「この故郷の 大地というのは、地質学から 宇宙物理学に至る自然科学の対象分野としての、我々の惑星上の、土地と水と動植物、空気をもった一定の画定された領域を意味するのではない。それはそもそも近代的な意味における「自然」とはちがのである。なぜならまさにその語のもつ原初的命名力における 自然、ナトゥーラ<natura>、ピュシスの形而上学的意味からしてすでに、本質的に有の解釈が含まれているのである。ギリシャ人によって解明され言葉とされた根源的自然は、後に異質な二つの力によって脱自然化されたのであった。ひとつはキリスト教であった。すなわちキリ ス ト教によ って自然はまず「 創られたもの」におとしめられ、そして同時に超一自然( 思寵の日 ) との関係にも たら されたのであった。次に近代自然科学によってであった。それは自然を、世界交通や産業化、あるいは特別な意味における機械技術という数学的秩序の勢力圏に解消してしまったとその著『ヘルダーリンの賛歌、「ゲルマーニエンj と「ライン」の中で、ハイ デッガーは述べている。 これは1934/35年の冬学期にフライブルク大学で講議されたものである。ハイデツガーがこのように考えるようになったのは、古典ギリシアの思想 の研究、 特に、アナクシマンドロス、ヘラクレイトス やパルメ ニデスなどのソクラテス以前の自然哲学者たちの「 ピュシス論」 についての研究によってである。』


« 山地拠点都市構想の再検討 | トップページ | 継体天皇の謎(その31) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/65139196

この記事へのトラックバック一覧です: 老子(その36):

« 山地拠点都市構想の再検討 | トップページ | 継体天皇の謎(その31) »