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2016年4月29日 (金)

継体天皇の謎(その35)

継体天皇の謎(その35)

第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり(8)
(3)葛城襲津彦について(2)

さて、日本書紀には、神功皇后と応神天皇(第15代)と仁徳天皇(第16代)の時代、朝鮮半島に渡った葛城襲津彦の事績が記されている。ウィキペディアによれば、次のとおりである。

神功皇后5年3月7日条:新羅王の人質の微叱旱岐(み しこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしま う。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐 糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

神功皇后62年条:新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。

応神天皇14年是歳条: 百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

応神天皇16年8月条 :天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

仁徳天皇41年3月条: 天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。


以上のとおり、日本書紀では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在の人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある。しかし、私は、実在の人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説を支持したい。
葛城襲津彦は、実在の人物であり、加羅から弓月の民(秦一族)を率いてわが国にやってきた渡来人で、古事記に記述されているように、武内宿禰の子・葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)であると考える次第である。


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