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2016年3月18日 (金)

老子(その25)

老子(その25)

老子とプラトンとの繋がり(11)
ニーチェとブラトン(2)

『 ニーチェの哲学は「命の哲学」だ。彼の多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生きる上での最高の価値であって、それは「子どもは社会の宝」であるというこことだ。まだ早すぎるかもしれないが、この本「さまよえるニーチェの亡霊」を最後まで根気よく読んでいただくために、ここらで結論を言っておきたい。
 今申し上げたように、ニーチェの多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生きる上での最高の価値であって、それは「子どもは社会の宝」である。人は何のために生きているのか? 私たちは「生きていくために生きている」のである。では、その生き方はどうでなければならないのか? 「子どものために生きる」のである。子どもは自分の子どもでなくてもよい。昔、乳母というものがあったし、自分のおばあちゃんに子どもの面倒を見てもらうということも少なくなかった。母親というのは、昔から結構自分の仕事に忙しく、子育てはおばあちゃんに任せていた。高貴な人は乳母にお願いしていたかもしれないが、子育てはおばあちゃんの役割というのが少なくなかったのである。おばあちゃんが人生の中で身に付けた感性とか人生訓とかいろいろなノウハウを孫に伝達してきたのである。そのお蔭で人類はここまで発展してきたという「人類発展おばあちゃん説」という学説があるが、今までおばあちゃんの存在はきわめて大きかったのである。
 現在は、核家族であるので、それを望むべきもないが、もし田舎でも移住が可能であれば、家族農業をやりながら、昔の大家族の生活をするのも非常に価値がある。しかし、それが難しい場合も多かろうと思われるので、私は、都市を生きる人たちに「文化を生きる」生き方も立派な生き方であると申し上げているのだ。子育てに生きるか文化に生きるか二者択一であるが、いずれの場合であっても、エロスの神に「祈り」を捧げ、人生をイキイキと生きていってもらいたい。エロスの神に「祈り」を捧げるということは、まずは自分自身が自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけるように祈ることに他ならないが、それも結局は子どものためである。ニーチェは人類のためとか種の保存のためという趣旨のことを時々言っているけれど、それは子どもが私たち人類の「命」を繋いでいるということなのである。まさに、子どもは人類の宝である。子どもの健やかに育つことを祈らずにはおられない。』

『 ニーチェは、「生の哲学」を考えており、人間の生の何たるかについて形而上学的思考を重ねた結果、アポロン的価値とディオニュソス的価値の統合を重視する。どちらに遍してもいけないのだ。合理と非合理の二元論的認識を排して、その統一を図らなければならない。矛盾を乗り越えなければならないのである。ニーチェはディオニュソスの狂乱的祭りを重視している。キリスト教はこれを排斥するので、そんな神は殺してしまえと言っているのだ。』

『 アポロン的な神も含めて、さまざまな神を祀ること、それがニーチェの悲願だったと思う。これをかなえることによって、ニーチェの魂は天国に旅立つことができる。ニーチェの魂は浮かばれるのだ!』・・・と。



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