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2016年3月30日 (水)

継体天皇の謎(その21)

継体天皇の謎(その21)

第2章の要点

私は、継体天皇の謎(その3)~(その20)において「 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について」縷々つぶやいてきた。それは、わが国と古代朝鮮との繋がりがとても強く、その辺の事情が解らないと継体天皇がなぜ擁立されたかが理解できないからである。

今までのつぶやき (その3)~(その20) を第2章として章立てしたものが次のファイルである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keitai02.pdf


ここではその要点を抜き書きしておきたい。

『 新羅の支援を背景にした九州での磐井氏の出現は、畿内の豪族たちの考えを大きく変えるきかっけとなった。北九州が大和政権に反発する地域 になることは、当時としては唯一鉄の輸入窓口を押さえられることであり、大和政権の維持は出来なくなる。これをどうするか、多くの畿内豪族は、この一点で 意見が一致した。つまり、磐井氏に対抗できる強力な天皇が必要になったのである。 継体の母は「振媛」で、振媛の母親は加羅国王の娘といわれている。つまり、継体は、父は応神天皇の血を引く畿内豪族・息長氏で、母は加羅国王の血を引いていたので、新羅と対抗できると見られたのである。』

『 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。』

『 加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。』

『 加羅、これは九州北部と密接な関係を持った朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあった。』

『 斯盧国は、新羅の前身であるが、4世紀に、加羅を吸収したことが知られている。斯盧国は6世紀の初頭に新羅と国号を改めた。その新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済をそして668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまったのである。』

『 百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」と「新羅-唐」の対立となり、わが国もこの争いに巻き込まれていく。大和朝廷にとって、新羅を抑え、如何に百済を支援するかが外交の焦点となった。』



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