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2016年2月16日 (火)

継体天皇の謎(その14)

継体天皇の謎(その14)

第2章 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について(7)
第2節 古代朝鮮の歴史について(概論)(3)
2、百済(1)

百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する。それ以前の歴史は明らかでない。百済の始祖については、少なくとも3種の異なる系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるものとなっている。扶余は、満州の古い時代の地名であり、後年、高句麗の領土になっているので、高句麗に攻められて扶余の支配者が百済の地に逃げてきて、百済を建国したかもしれない。これは私のかってな想像だが、百済を建国の歴史的事実は史料的に全く不明である。中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本書紀では肖古王、古事記では照古王とする。百済を建国がいつ頃なのかは判らないのだが、私は、高句麗の建国よりずっと後であると考えている。

百済は、古代朝鮮の三国時代の高句麗、斯盧(しら)ならびに新羅と並ぶ強国であるが、高句麗、斯盧(しら)ならびに新羅とは争い続け、遂に、新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は、山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。
百済が盛んに高句麗と争っていた頃、倭が朝鮮半島へ進出を始め、一時、倭が百済や新羅を破り臣民としたこともある。

東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。新羅とは同盟関係を結び、百済の安定した時代もあったが、しかし、6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、百済は劣勢に陥っていく。



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