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2016年2月11日 (木)

継体天皇の謎(その13)

継体天皇の謎(その13)

第2章 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について(6)
第2節 古代朝鮮の歴史について(概論)(2)
1、高句麗(2)

391年に即位した19代王の好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って百済王を臣従させた。
その頃、倭が朝鮮半島へ進出を始め、一時、倭が百済や斯盧を破り臣民としたこともある。
石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369)、百済王から倭王に、国交開始を記念するためであろう、七支刀が贈られたことが記され、広開土王碑に辛卯(391)より甲辰(404)まで、倭が百済、斯盧と交流をもちつつ,高句麗とはげしく戦ったことが記録されている。その主体となった倭王はヤマト王権をさす。
百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。
また、倭の攻撃を受けた斯盧は高句麗に救援を求めると、好太王は斯盧救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が斯盧へ軍を進めると斯盧の都にいた倭軍は任那、加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより斯盧は高句麗の朝献国となった。
高句麗は、5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌に遷都した。そして、長寿王は百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に移動している。高句麗は、この時期、満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
しかし5世紀末になると百済と斯盧が強くなり、百済と斯盧の連合により南部の領土を奪い返されている。

隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。高句麗と百済の連合軍 対 唐と新羅の連合軍との戦い、新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。
斯盧国は、新羅の前身であるが、4世紀に、加羅を吸収したことが知られている。斯盧国は6世紀の初頭に新羅と国号を改めた。その新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済をそして668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまったのである。

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