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2016年2月26日 (金)

継体天皇(その15)

継体天皇の謎(その15)

第2章 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について(8)
第2節 古代朝鮮の歴史について(概論)(4)
2、百済(2)

百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」と「新羅-唐」の対立となり、わが国もこの争いに巻き込まれていく。大和朝廷にとって、如何に百済を支援するかが外交の焦点となった。
石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369)、百済王から倭王に、国交開始を記念するためであろう、七支刀が贈られたことが記され、広開土王碑に辛卯(391)より甲辰(404)まで、倭が百済、新羅と交流をもちつつ、高句麗とはげしく戦ったことが記録されている。その主体となった倭王はヤマト王権をさす。
百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。
また、倭の攻撃を受けた斯盧は高句麗に救援を求めると、好太王は斯盧救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が斯盧へ軍を進めると斯盧の都にいた倭軍は任那、加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより斯盧は高句麗の朝献国となった。
斯盧国は、新羅の前身であるが、4世紀に、加羅を吸収したことが知られている。斯盧国は6世紀の初頭に新羅と国号を改めた。その新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済をそして668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまったのである。
隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。新羅の宗主国である唐は新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、百済の人びとは宗主国・大和朝廷を頼り日本にやってくるのである。



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