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2016年1月10日 (日)

山地拠点都市構想(その114)

山地拠点都市構想(その114)
「山の霊魂」(10)

町田宗鳳の考え(3)

ここで非常に大切なことを一つ指摘しておかねばならない。それは古代人が持っていた感覚や、その鋭い感覚に触発されて生まれてくる想像力を、けっして現代人のそれと同類のものとあつかってはならないということだ。彼らは、眼、耳、鼻、口、皮膚と言ったバラバラに分離した器官ではなく、全身で感覚していたのであある。個々の感覚的知覚を統合するものとして「共通感覚」という言葉を最初に使い出したのはアリストテレスであるが、近代以前の人間が、そのような統合的感覚をどれほど旺盛にもっていたかは、今も世界各地で暮らす先住民族の生態を少しばかり垣間みればすぐにわかることである。彼らは、獲物がどこに潜んでいるか、どこに行けば食べごろの木の実が採れるか、独特のカンを働かせる。抜群の視力や聴力を駆使するだけでなく、風の匂いのようなものを嗅ぎ取り、そこから必要情報を体にインプットしていくのである。(中略)そういう感覚を特に旺盛に持つ者は、透視や予言などの超自然的な能力を伸張させていき、やがては部族の中でシャーマン的な役割を果たすようになった。(中略)感覚が活発に働いておれば、さまざまなイメージが心の中に湧出してくる。それが想像力である。われわれが迷信や蒙昧(もうまい)というレッテルで片付けてしまいがちな彼らの想像力は、どこまでも有機的であった。酵母菌のように、どんどん自家増殖する力を持っていたのである。さしずめ近代以降の人間の想像力は、ますます無精卵的なものになりつつあるのではなかろうか。ここでさしずめ思い出されるのは、「詩人の中でもっとも哲学者であり、哲学者の中でもっとも詩人である」と言われたガストン・バシュラールの「物質的想像力」という考え方である。それは、人間が目の前に存在しない事物を夢想する能力ではなく、世界を構成している火、水、空、土などの物質的要素から直接的な刺激を受け、力強いイメージを喚起する想像力のことである。人間が頭の中で想像するのではなく、自然界の物質によって喚起される想像力は、既存のイメージをデフォルメ(変形)し、その常識的イメージからわれわれを解放してくれる。われわれが、未来に向かってどこまで新しい生活を築きえるかも、ひとえに想像力の資質にかかっている。バシュラールは、本物の詩人なら誰でもこの「物質的想像力」を駆使していると言ったのだが、東北の野山を彷徨しながら、「心象スケッチ」を描き続けた宮沢賢治のことを思い浮かべてみれば、なるほどと思われてくる。彼のつづる童話が読者の心の中に、パン種のような有機的膨らみをもたらすのは、岩手産の「物質的想像力」のせいらしい。
山を見て、地殻変動によって生じた特殊な地形としか見ることができなくなったのは、近代人のドライな想像力のせいである。有機的な」想像力をもつ古代人の感覚には、山はもっとも野卑にして、もっとも力強い生き物以外の何ものでもなかった筈だ。


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