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2016年1月26日 (火)

継体天皇の謎(その11)

連合軍は、淡路島にやってくる。それまで長い年月を要したが、遂に、淡路島にやってきたのである。それから大和に入るまで、紀伊の豪族との融和工作にさらなる時間を要しただろう。その間、応神天皇は淡路島と小豆島あたりにしばらく待機していたようだ。そして、遂に、紀ノ川を遡って大和入りを果たすのである。



以上が、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」より、古代朝鮮への進出に関連する記事をピックアップしたものであるが、念のため、古代朝鮮に関する記事を再掲しておこう。

『 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考えた方が良いと思う。無理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の大阪の堺(さかい)のように、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いのかもしれない。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。』

この文章の中で、私は、三つの重要なことを述べている。一つは、 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されているということ、二つ目は、加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたこと、三つ目は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたのではないかということである。

三国志魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓と呼ばれるようになったという。宋書倭国伝では、通称「倭の五王」の記事には秦韓が現れる。水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べているが、辰韓は秦韓とも呼ばれていたのである。弓月君の帰化の伝承は、この辰韓、秦韓の歴史に関係するとも考えられている。すなわち、秦氏の祖先を知るためには、古代朝鮮の辰韓について知る必要がある。したがって、次の節では、古代朝鮮の歴史を勉強することにしよう。


邪馬台国の時代、倭国は、邪馬台国を中心に政治的に安定していたが、その後、倭国は、良きリーダーに恵まれなかったようである。加羅、これは九州北部と密接な関係を持った朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあったが、この加羅の交易の自由とこの小国の自治を守るために、倭国の良きリーダーが待望されていたのである。そこで、秦氏の始祖・功満王の活躍が始まる。大商人の働きかけがあったかもしれない。秦氏の始祖・功満王の憧れの地は、大和であった。そこで大和の若きリーダーの発掘に動き、筑後川流域の「ホムダワケ」を見いだすのである。そして大和に出かけて、物部氏への説得工作に努力する。そして、説得に成功。秦氏の始祖・功満王は、物部氏の全面的な協力を得て、応神天皇の擁立に全精力を傾けるのである。応神天皇誕生の立役者は秦氏の始祖・功満王である。

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