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2016年1月19日 (火)

山地拠点都市構想(その119)

山地拠点都市構想(その119)
「山の霊魂」(15)

アリストテレスの「共感覚論」(3)

「動物が全体を見て直感的にそれなりの適切な判断する能力」というものに関しては、町田宗鳳の説明にあったように、アリストテレスの「共感覚論」というのがある。以下、 アリストテレスの「共感覚論」の解説に入りたい。

共通感覚という言葉は、常識という意味でも使われるし、また中村雄二郎の共通感覚論というのもある。それらとの紛れを避けるために、アリストテレスの共通感覚は、私は、共感覚と呼ぶことにしたい。
私たちは、五感で何かを感じて行動を起こす。五感とは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五つである。実は、この他に第六感というものもあるが、一般的には私たちの感覚は五感にもとづくものである。あるサークルに属して趣味的な活動やらボランティア活動をやろうとか、地域のために何か役に立とうとか、さらには愛する国のために何かをやろうとか、いろいろな活動を行う。それらは帰属意識であるが、私たちは何らかの帰属意識というものを持っていて、いろいろな活動を行うのである。感覚がそういう意識を生じせしめる。

さあ、そこで五感による感覚についてであるが、このことに関してアリストテレスの共感覚論というのがある。アリストテレスの共感覚論とは次のようなものである。

私たち人間の感覚には、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五つのものがある。これらの感覚について、われわれは視覚内部での相違、たとえば赤や青や黒といった色彩相互の相違を感じ分けるとともに、視覚上の色と味覚上の甘さといった、異なった感覚にわたる相違についても感じ分けることができる。感じわけることは、アリストテレスによれば判断以前のことである。だからそれも感覚能力の一部というべきであるが、しかし個別の感覚を超えたものである。アリストテレスはこれを共感覚と呼んだ。また感覚はおのおの個別に感じ分けられるとともに、異なった感覚を横断しての感じ分けもなされる。たとえばバラの花について、我々は甘い匂いなどという。本来甘さ(味覚)と匂い(臭覚)とは異なった感覚なのであるが、それがバラの花というものにおいて結びつき、このような表現が生まれるのである。

このような表現が生まれるについては、比較や総合といった、判断の要素が入っていると思われるのであるが、アリストテレスはあくまでも共感覚という感覚のレベルでのことだとしている。それは個別の感覚を超えたものではあるが、判断作用を踏まえた概念的な認識ではなく、対象の感性的な受容なのである。この共感覚の働きがあるからこそ、人間は個別の感覚を通じて対象を全体的に把握することができるようになる。たとえば花びらの形やその色、漂う匂い、手をさす棘の存在、これらはみな別個の感覚であるが、それがバラの花の中に結びついて、ひとつの全体的な対象把握が成立する。共感覚の作用がなければ、個々の感覚はばらばらに受け取られるだけで、そこには一本のばらというまとまりある表象は成立しないだろう。

このようにアリストテレスの共感覚は、個々の感覚から表象を経て概念的な知に至る認識の作用にとって、基礎的な役割を果たしている。しかもそれは判断にもとづいた概念的な作用ではなく、あくまでも感性的な働きであった。ここにアリストテレスの共感覚のユニークなところがある。共感覚は対象の感性的かつ全体的な受容により世界の空間的な把握を可能にするとともに、時間把握の前提ともなる。アリストテレスによれば、現在に関するものが感覚であり、未来に関するものが期待であり、過去に関するものが記憶である。記憶を構成しているのは表象であるが、それは本来的には思考に属するものではなく、共感覚に属するものなのである。人間は共感覚を通じて、現在の感覚と過去の記憶、そして未来への期待とを相互に関連付けることから時間の観念を獲得した。これがアリストテレスの共感覚論的時間論である。


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