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2015年12月10日 (木)

老子(その8)

老子(その8)
淮南子(えなんじ)の思想史的意義(4)

老荘的な統一の場、それが「淮南子」であった。それでは、日本版「淮南子」と私が呼ぶ宗教哲学統一の場では、どのような思想が統一されるべきか、そのことに関連して、 金谷治の「淮南子の思想」(1992年2月、講談社)の中の記述を、この際ここに紹介しておきたい。
金谷治は、「淮南子の思想」の中で次のように述べている。すなわち、
『 道を完全に体得したもの、それこそが理想の人格、真人であった。』

『 道のことだけをいうのでは世俗とともに生活できない。しかしまた、現実のことばかりをいうのでは、自然の変化に合一して遊び憩うことができない。つまり、形而上的な深遠な道を説くのは、わずらわしい雑多な変化の多い現実にとらわれないで、超越的な心境に遊べるようにという。そのための配慮からだ、というのが淮南子要略篇(老荘統一の場)のことばである。
 そもそも「老子」や「荘子」で道の問題が考えられたのも、おそらくは、現実的な関心から出発したことである。現実の世界にはさまざまな対立的差別があり、また甚だしい無常な変化がある。貧富の差、身分の高下はもとより、今日の勝者は明日の敗者で悲しみ喜びの定まるところもない。

『 人間的な道義を守ってできるだけ努力して行くというのが、儒教の立場であった。しかし、道家の人びとは、そうした人間的な努力の空しさをあまりにも深く知り過ぎた。ではこの住みにくい世を生きて行くためには、どうすれば良いか。単純な刹那的な快楽主義にならないためには、そうした現実の差別や変化のさまざまな姿を一貫して変わることのないもの、それを追求してそこに安住することが必要である。差別や変化を生み出すもの、あるいは成り立たせるものとしての道は、こうして得られた。それが、宗教的な神を求める方向に向かわなかったところに、われわれは著しい中国的な特色を認めなければならない。』

『 道の立場に立つことこそ、すべての思想的立場を包括することである。』・・・と。


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