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2015年12月24日 (木)

継体天皇の謎(その2)

継体天皇の謎(その2)

はじめに(2)

継体天皇の問題については、ほとんど研究が進んでおらず、多くの疑問があるにも拘らずそれが解明されていない。その原因は、古事記や日本書紀が史実を伝えていないところにあると思われる。記紀は藤原不比等の深慮遠謀による創作である。
私は、「明日香と阿知王」という論文で書いたが、梅原猛が言うように、記紀神話は、藤原不比等の「祓いの神道」によって作成された神話である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/asukaati.pdf

そして、 梅原猛が言うように、 この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀神話によって、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるようになったのである。
実は、私は、論文「邪馬台国と古代史の最新」において、藤原不比等の深慮遠謀というテーマで天照大神のことを書いたが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の神聖化を図ったというところにあった。しかし、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわち中臣神道の創造にあったということは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼から鱗が落ちる思いである。梅原猛の慧眼に今更ながら感服している次第である。
「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。
この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに分割した。即ち、政治を司る不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神祇を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神祇を司ることは一族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代だった。
そのような状況の中で、危機感を持ったのが秦氏であり、秦氏の場合は見事に中臣神道に対抗して「八幡大菩薩」を誕生させた。しかし、そのような中で没落していった忌部氏という名門氏族がいる。忌部氏は古くから神を祀る氏として天皇に仕えてきたが、藤原の政治力を背景にした中臣神道に圧倒されて宮廷の神事から遠のいてしまった。伊勢神宮も、伊勢の地元神としての元来の姿を奪われ、中臣支配の許、皇室の祖先神たるべく神道理論を構築していくのである。

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