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2015年12月19日 (土)

老子(その9)

老子(その9)
淮南子(えなんじ)の思想史的意義(5)

宗教と哲学の問題は大変難しい。私は宗教哲学という言葉を使っているが、宗教哲学には二つの側面がある。ひとつは、淮南子がそうであるように、先に哲学があって、のちほどその哲学を教義とする宗教が誕生する場合、もう一つは、ヘーゲルのキリスト教哲学がそうであるように、宗教が先にあって、のちほどその宗教を哲学的に位置づける場合である。そのどちらの立場が良いか私には判らないが、今ここでは、ヘーゲル哲学に倣って法華経哲学を模索しているがお手上げ状態であることを告白しておこう。これからは、法華経哲学の模索を諦めて、これからは特定の宗教とは無関係に、日本の宗教観のバックボーンになるような哲学に向けて、模索を始めたいと思う。日本版「淮南子」に向けての模索ということだ。プラトンの「コーラ」や円仁の「摩多羅神」と中村雄二郎のリズム論との関係が今私の念頭にある。その橋渡しをする基本的な哲学として、西田幾多郎の「無の哲学」を思い浮かべている。ひょっとしたら、 西田幾多郎の「無の哲学」は老荘思想と繋がるかもしれないと感じつつ・・・・。




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