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2015年9月18日 (金)

山地拠点都市構想(その97)

山地拠点都市構想(その97)

第1章 山の魅力 第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」(9)

ここに慧心僧都とか慧心院僧都とか源信僧都と折口信夫が書いているのは、源信(げんしん)のことである。源信(げんしん)は、慈覚大師の流れを汲む天台宗の高僧。浄土真宗では、親鸞が選んだ七高僧(1龍樹、2天親、3曇鸞<どんらん>、4道綽<どうしゃく>、5善導、6源信、7法然)の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。
天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻[2]に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正親、母は清原氏。
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。
天暦9年(955年)、得度。
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。母の諫言の和歌 - 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入る。永観3年(985年)1月3日、良源は示寂。
寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。
寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。
寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。
長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を撰述。
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した。

以上、源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田宗鳳の見解を述べてきたが、私も「山越阿弥陀図」は源信の創作に始まるものと思う。まず間違いなかろう。

さて、源信はどういう心情で「山越阿弥陀図」を書いたのだろう。その資料がないので、想像するしかないが、私の想像するところを書いておきたい。
上述したように、 山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。このような精神世界こそ日本人の心の原風景でもあって、全国に共通する日本人の「霊魂観」を表している。山こそ私たち日本人の心の故郷なのである。町田 宗鳳も「町田 宗鳳は「日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ね合わせ、自分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこにはえも言われぬノスタルジアを覚えてきたのである。」と語っている。
さて、話はごろっと変わるが、弥盛地(いやしろち)の話である。「弥盛地(イヤシロチ)」についての一つの大事な現象、これをご理解いただくには「系統発生」のことを語らねばならない。私たちがみんな生まれるときに経験する「系統発生」について、私の電子書籍「女性礼賛」の第2章に詳しく書いてあるので、是非、熟読していただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna02.pdf




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