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2015年9月14日 (月)

山地拠点都市構想(その96)

山地拠点都市構想(その96)

第1章 山の魅力 第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」(8)

さて、この源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田宗鳳は次のように述べている。

1、慧心僧都(えしんそうず)の根本信念は、 称讃浄土仏摂受経(しょうじゅぎょう) から来ていると思われるのである。此聖(ひじり)生れは、大和葛上郡――北葛城郡――当麻村というが、委(くわ)しくは首邑(しゅゆう)当麻を離るること、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕二上山(ふたかみやま)の姿を仰ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。

2、山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけでも、相当の数にはなるだろう。が、悉(ことごと)く所伝通り、凡(すべて)慧心僧都以後の物ばかりである。

3、 山越し阿弥陀像は比叡の横川(よがわ)で、僧都自ら感得したものと伝えられている。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず凡 そう言う事のありそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせているということは出来る。横川において感得した相好とす れば、三尊仏の背景に当るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべ てそう言う意図を持っているのだから。併し若(も)し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなことも謂(い)えぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、漣(さざなみ)とを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。

4、慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院(こんぶいん)の 来迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必 須条件でないといえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの浄土変相図としての条件を、 持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。

5、源信僧都が感得したと言うのは、其でよい。ただ叡山横川において想見したとの伝説は伝説としての意味はあっても、もっと切実な画因を、外に持って居ると思われる。幼い慧心院僧都が、毎日の夕焼けを見、又年に再大いに、之を瞻(み)た二上山の落日である。今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を択ぶがよい。日は両峰の間に俄(にわ)かに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう。

6、私の女主人公南家(なんけ)藤原郎女(いらつめ)の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。そうして又、仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き出た姿であったのだ、とも謂(い)われるのである。


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