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2015年9月22日 (火)

山地拠点都市構想(その98)

山地拠点都市構想(その98)

第1章 山の魅力 第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」(10)

この「系統発生」というのはまことに摩訶不思議な現象であり、シェルドレイクの「形態形成場の仮説」を前提に波動というものを考慮しない限り、理解することはできない。それと同じような波動現象が「弥盛地(イヤシロチ)」でも起こっている。この波動現象は人間のみが感知しうるものであろう。

「弥盛地(イヤシロチ)」には二つの力が働いている。一つは山や川からやってきて人間以外のものにも働く波動の力、もう一つは人間のみに働く波動の力、前者を「風水的現象」と呼び、後者を「地域の系統発生」と呼ぼうと思う。これらの波動現象については、私の説明を補強又は関係するものとして関英男の研究がある。関 英男は日本を代表する電気工学者である。東京工大卒業後、東京工大・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・東海大学の教授を歴任したが、電波関係の著作も多く、電波工学の世界的権威として知られている立派な科学者である。勲三等瑞宝章を受章。この方は日本サイ科学会を創設するなどサイ科学の研究・発展・啓蒙に努められたのである。私は関英男の提唱する「サイ科学」に重大な関心を持っており、彼の最新の著書「生命と宇宙」(関英男、平成10年3月、飛鳥新社)から、私の提唱する「祈りの科学」を補強又は関係の深い部分を紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihido.pdf

私は、 先に述べたように この世はすべて「波動の海」であるが、関英男は波動にも「念波」と「天波」が二種類の波動があるという。そしてその「念波」に関連して、関英男は私のいう「外なる神」を宇宙創造の神様と呼び、その「外なる神」が発する波動を「天波」と呼んでいる。さらに、私たちに内在する「内なる神」が発する波動を「念波」と呼んでいる。私がいう「外なる神」や「内なる神」については、電子書籍「祈りの科学シリーズ」(1)の「<100匹目の猿>が100匹」の第10章と 第13章を是非読んでもらいたいと思うが、私の主張は「神に祈りを捧げれば、神はそれをかならず聞きとどけてくれる。」というものである。しかし、関英男の主張はさらに先を行っていて、宇宙創造の神には「意思」というものがある、というものである。私には、宇宙に意思があるかどうかは判らないが、「内なる神」の発する波動と「外なる神」の発する波動との共振現象があるのは間違いないと思う。さらに、それとは別個に「外なる神」の発する波動というものがあって、それが人間も含めてあらゆる生物と「響き合う」のである。前者は私が主張する「地域の系統発生」の現象であり、後者は「弥盛地(イヤシロチ)」でも起こっている「風水的現象」である。
縄文遺跡というのは、「地域の系統発生」型のイヤシロチである。縄文遺跡に静かにたたずんで神に「祈り」を捧げれば、きっと縄文の声が聞こえてくるはずだ。山は縄文人の日々の生活空間であった。男は狩猟に明け暮れ、女子供は山菜採りに明け暮れた。縄文人の魂が今なお天空に存在するので、山に入って祈りを捧げれば、きっと縄文人と響き合うことができる筈だ。かかる私の「地域の系統発生」ということからも、山は私たちの「魂の故郷」であることは間違いない。源信は、比叡山において、きっとそういう「地域の系統発生」を感じたに違いない。これが源信が「山越阿弥陀図」を書いたときのひとつの心情である。

次に、山によって源信はなぜ浄土を思い浮かべたか、その「山の浄土性」について説明したいと思う。
ホワイトヘッドのプロセス哲学は、私のもっともなじみやすい哲学である。私たち日本の「やおよろずの神」を説明し得る哲学はホワイトヘッドの哲学だけである。ホワイトヘッドの哲学については、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」の第4章に詳しく書いたので、是非、それを読んでほしい。
ホワイトヘッドの哲学は、活動存在、エネルゲイア、抱握、永遠的対象という概念からなりたっている。生成と変化という語は、従来同一の事態を指すものとして曖昧に扱われてきたが、ホワイトヘッドは両者を明確に区別している。現実の存続物にはそれなりの本質的な意味がある。しかし、その本質的な意味を生じせしめているのは、生成と消滅をくり返す「活動的存在の世界」、つまり「量子の世界」である。すなわち、現実の存在の本質は「生成と消滅」にある。そこで生じた本質的な意味を私たちは「橋」という変換機能によってはじめて「抱握」しうるのである。心や神は「活動的存在の世界」、つまり「量子の世界」におわす。しかし、そのままでは私たちはそれを「抱握」できない。私たちは「橋」という変換機能によってはじめて心や神の存在を「抱握」しうるのである。この文脈ではざっくり言って「抱握」は「感じる」のことであると考えてもらっていい。
ホワイトヘッドの哲学については、次の素晴らしいホームページもあるので、これも是非勉強してもらいたい。
http://www.geocities.jp/hakutoshu/index.htm

また、延原時行の著書「ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>」(2001年3月、法蔵館)もホワイトヘッドのプロセス哲学を勉強する良い教科書であると思うので、興味のある方は是非購読願いたい。


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