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2015年7月24日 (金)

グノーシスについて

グノーシスについて

「グノーシス」とは、歴史的に、「キリスト教から独立した別個の宗教・哲学体系の「認識」を代表するもの」と言われているが、私は、中沢新一と同じように、より広い概念でとらえたい。すなわち、広域に渡って支配的な中央の文化を包含して新たに誕生した、辺境の宗教や思想などの文化と考えたい。
中心地の文化の影響を受けながらも、その地域特有の文化を保持している。時代の進展とともにその地域の文化は今までにない新たな文化に変質してゆくが、その新たな文化は、中心地の文化を変質せしめる。

その典型的な事例は、伊勢神道に見られるようだ。中沢新一は、その著「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)で次のように述べている。すなわち、

『 中世において伊勢神宮外宮の神官たちがおこなった知的作業は、それまでのモノとは根本的に異なっていたのである。彼らは自分たちを育ててきた土着の精神文化の側、「文明」と「野生」を分けるフロンティアでは断固として「野生」の側に立って、「野生」をそのまま理論化しようとしたのである。そのさい、彼らは文字通りの食細胞と化して、当時の東アジアにおけるグラーバルスタンダードである中国文明の思考用具を食いつくし、食人となって自分にとっての異質な他者を体内に取り込む作業をおこなった。その結果、そこには「神道論」という名の「境界的グノーシス学」の一形態がつくりだされることになったのである。伊勢神道とも度会神道とも呼ばれるこの神道論は、まぎれもない日本的グノーシスである。それは「文明」と「野生」の境界で作られている。その境界で「野生」の側に置かれた人びとは、自分たちの精神を育ててきたものに対する誇りをもって、「文明」のもたらす光に激しい反発や対抗意識を抱いて、自分たちの抱えてきたものに理論を与えたいと願ったのだ。そのためには、「神」という概念に、明確な理論を与える必要がある。この「神」という概念は、仏教の哲学によっても陰陽道の合理論によっても、説明不可能な核心部分を抱えている。この核心部分を理論化しようとする努力を行なわない限り、神道の理論化は不可能である。伊勢神道から唯一神道にいたる神道論形成の運動の中から、こうしsて日本型のグノーシス学がかたちづくられることとなった。当時の東アジア世界を俯瞰的に捉えてみても、それは「文明」と「野生」の境界領域で起こった、興味深い試みとらえることができる。』・・・と。


辺境の地とは、中央の文化の及ばない遠隔の地をいうのではない。中央の文化の影響を受けながらも、古来からのその地域独特の文化を有している地域のことである。日本の中でいえば、その典型的な地域が東北である。東北の文化、それは、中沢新一いうところの「野生の文化」であるが、宮沢賢治などの感性豊かな人には「野生の感性」が息づいているようだ。金谷治も東北の人で、そういう「野生の感性」があるのだろう、哲学者として「辺境の地の持つ力」というものが自ずと判っていたようだ。

金谷治の書いた「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)を読んで私がいちばん強く思うのは、老荘思想のような物凄い思想が何故あのような「辺境の地」に誕生したかということである。それは、私の思うに、グノーシスの力による。金谷治は、そのことを知っていて、「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)では、その点に力点を置いて解説しているように思えてならない。

グノーシスについては、今までいろいろ書いてきているが、その代表的な論考を、この際ここに、紹介しておきたい。

辺境の哲学:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okusisou.html
グノーシス:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai04.html
内田樹の辺境論:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyongu04.html

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