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2015年6月 8日 (月)

秩父神社(その7)

第5章 秩父神社の「大市」について

「秩父神社の歴史的考察」の第5章は、 秩父神社における「市」の復活を図るためにはどうすれば良いか、その大問題を論じたものである。

「大市(大きな市)が成立するための基本的条件として地域の総鎮守としての立派な神社がある」ということだが、第1節では「市の始まり」についてその論点を整理した。第2節では「大市の条件」を明らかにした。 大市(大きな市)が成立するための基本的条件として地域の総鎮守としての立派な神社がある 。しかし、それだけでは市が賑やかになる訳ではない。商人の商いの目玉となるブランド商品がなければならない。そのブランド商品が立派なものであればあるほど広域的に商人を集めることができる。秩父神社の市の場合は、そのブランド商品が「秩父銘仙」であったため、広域的に商人を集めることができ、大市となったのである。秩父神社の市では、秦氏が神社の支援を得て大活躍をしたものと思われる。第3節では「秩父銘仙」の歴史について説明した。「秩父銘仙(めいせん)」は、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが 起源と言われている。 その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも高品質なものへと改良を重ね、 明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎える。絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、表が色あせても裏を使って 仕立て直しができる利点がある。 女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて全国的な人気を誇るようになったが、 特に独特のほぐし模様が人気を博したといわれている。 当時は養蚕業などを含めると市民の約七割が織物関係の仕事にかかわっていたと言われており、まさに秩父地域の基幹産業であったわけである。第4節では「秩父銘仙に関わる歴史的認識」として、 正(ただ)しくは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが 起源ではなくて、秦氏が始めて、秦氏が普及さしたのであることを説明した。ところで、 秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維の内 で、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫 (よろずはたひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社である。 第5節はその「蚕の社」について説明したものである。第6節と第7節は、狼信仰と妙見信仰の「枝分かれ」について説明した。秩父地方における狼信仰と妙見信仰は、本来、ともに信仰されてきたものであるが、現在、何故三峰神社が狼信仰であり秩父神社が妙見信仰なのか、その辺の説明をしたのである。第8節は、 現在の秩父神社における妙見信仰は、秩父夜祭の際に行われる一連の行事の中にその本質を示していると思われるので、その理由を整理した。 私は、この神々の国、日本において、秩父神社は、古来、わが国の信仰の本流を歩いてきたと思う。したがって、秩父神社は、これからも、全国の模範的な神社として発展するであろう、そのことが第8節でいちばん言いたいことだ。第9節は、秩父神社における「市」の復活を図るためにはどうすれば良いか、それを考えたものである。 今後とも秩父神社が祈る国日本の模範的な神社として今後とも発展することに大いなる期待を示し、大市でなくて小さな市でも良いから、秩父地域の元気再生のため、何らかの形の「市」が秩父神社の力によって開かれることに大きな期待を寄せたものである。そこで、私は、ここで自問自答をしながら、これからの時代を先取りする、まったく新しいタイプの「市」が開催できないかどうか、考えてみた。これは私のまったくユニークな提案である。如何にそれを進めるか、第6章でその説明をしていきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/titikou5.pdf


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