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2015年6月 8日 (月)

山地拠点都市構想(その86)

山地拠点都市構想(その86)

第1章 山の魅力 第5節 思い出の山さまざま(7)

 養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいっている。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習 というと「脳」の問題だと思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非常に大きい、というのが養老孟司の認識の基本で ある。これは、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったことの一つが<身体>の問題で す。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本には身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてしまったよう だ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健全でなければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしま う。それを正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司は次のように言っている。すなわち、

『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行な うことが一致すべきだ、という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意 味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくては意味がない、学んだことと行動と が互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。

 赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反 応=出力も変わる。ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これをくり返していくことが学習 です。
 この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。
 赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。
 仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり 返しているようなものです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。
 私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な 意見を在職中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。この制限は外れてみないとわから ない。それこそが無意識というものです。
 「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。』・・・と。



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