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2015年5月29日 (金)

山本玄峰

山本玄峰

 「戦争」というものをどう認識するか。そのことに関連して、ここで、山本玄峰の血盟団事件の被告の特別弁護、その陳述を紹介しておきたい。涙なくして聞けないもの凄い内容である。山本玄峰は白隠禅師の再来といわれた名僧で、第二次大戦の終結を天皇に進言し,さらに玉音放送(敗戦の詔勅)の有名な一節「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて・・・」を進言したと言われている。山本玄峰の陳述内容は以下の通りである。

 玄峰はまず、大声でこう断(ことわ)った。
「第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している」と。
 次に玄峰は、「人、乾(けん)、坤(こん)――宇宙の本体のあらわれが我が国体である」と、指摘し、「仏教信者がなぜかかることをなしたか? 仏は和合を旨とし、四恩を基としている。百三十六の地獄があるが、悪をもってすれば蟻一匹殺しても地獄行きとなる。和合を破り、国家国体に害を及ぼすものは、たとえ善人といわれるとも、殺しても罪はない、と仏は言う。仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない。
道ばたの地蔵菩薩でさえ、小便をかけられても、黙々としてこれを受けているが、やはり手には槍を持っている」「法は大海の如く、ようやく入ればいよいよ深い。日召が真の仕事をするのはこれからと思う。万一死刑となって死し、虚空は尽きても、その願は尽きぬ。日本全体、有色人を生かすも殺すも日本精神ひとつである。これを知らぬ者は一人もないはずだ」
そして最後に、「胸に迫ってこれ以上申し上げられぬが、鏡と鏡、仏と仏との心にかえって、なにとぞお裁き願います」と言って合掌した。

 山本玄峰の特別弁護の陳述内容は以上の通りである。ここで注目して欲しいのは、「仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない」ということである。仏の心境に達した井上日召のような人物でないと暗殺なんてものはやってはならないということは当然だとしても、山本玄峰が井上日召ような人物なら暗殺をやっていいと考えていたのかどうか、それは陳述内容を注意深く読んでもはっきりはしない。しかし、私は血盟団事件の被告でありその後山本玄峰の直弟子となった四元義隆(よつもとよしたか)さんから「暗殺なんてものはやってはならない」ということをはっきりと聞いた。四元義隆さんのことは第2章第2節で書いた。今西錦司とは肝胆相照らす仲だったのである。四元義隆さんは私を今西錦司の系譜に連なる者と見ておられて,たびたび酒の席に呼んでいただいた。松尾稔君が今西錦司の直伝弟子であるので同席することが多かった。四元義隆さんは私らに暗殺はイカンと仰ってた。このことは皆さんに是非お伝えしなければならないだろう。四元義隆さんの言葉の意味は実に重い。
 私も暗殺はイカンと思う。第2章第3節に述べたように、私たちの生きる目的は、「生きるために生きている」ところにある。死んではならぬ。相手に襲われ死の危険があるときは、なんとしてでも相手を殺さなければならない。しかし、 どんな純粋な気持ちからであろうと主義主張で暗殺をしてはならない 。五・一五事件の決行者(海軍の士官たち)の法廷陳述が始まるや、彼らの純粋な気持ちに国民の多くが感動。彼らは英雄視されていく。そしてそういう雰囲気の中で、民主主義は崩壊し、国は次第に軍国主義に傾いていくのである。二・二六事件はそれを決定的なものにした。軍の幹部は軍の論理を通すため天皇を利用するまでに腐敗していたのであって、事件を決行した陸軍士官の連中の純粋な気持ちなどが通る状況ではなかったのである。事件を決行した陸軍士官の連中は甘かったというか間違っていたのである。どんな純粋な気持ちからであろうと、やはり主義主張で暗殺をしてはならないのである 。 むやみやたらに人を殺してはならない。それが今西錦司がいうプロトアイデンティティであり、種の保存の原理であると思う。平和の原理であると思う。日本文化の心髄「違いを認める文化」を生きることだと思う。インディアンの崇高な哲学もそうだ。
 三・一五も二・二六も井上日召の血盟団事件に端を発しているので、井上日召の話に戻る。以上縷々述べてきたように、暗殺は絶対に避けるべきなのである。だとすれば、井上日召のどこが間違っていたのか。暗殺という武力行使を避けるべきだとしたら、井上日召のできることは、「外なる神」に助けを求めることとその「祈り」の仲間を増やすことぐらいしかない。「祈り」の仲間を増やし、「100匹目の猿現象」が起れば、政治も変わらざるを得ない。
 戦争も殺人も自己防衛の場合は特に問題はない。山本玄峰が言うように「 仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない」のであるから、国家の場合も軍備を持たねばならない。国家は、どのような国から戦争を仕掛けられても、それに対抗できるよう、充分な軍備を持たなければならない。問題はこちらから仕掛ける場合である。戦争と暗殺は、こちらの意志で武力を行使すると点では哲学的に同じである。戦争が勃発しようという場合、外交でこれを食い止めることは容易ではない。しかし、こちらから仕掛けてはならない。それが憲法第九条第一項の趣旨である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyouwa06.pdf

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