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2015年4月28日 (火)

山地拠点都市構想(その73)

山地拠点都市構想(その73)

後編の「はじめに」

前編の「はじめに」で申し上げたように、この論文「山地拠点都市構想」は、 私なりの国土ヴィジョン であり、プラトンの国家論を参考にしたひとつの国家論である。

先に書いた「霊魂の哲学と科学」で展開した私の国家論を補完し、それを具体化したものである。「知恵のある国家とはどのようなものであるのか?」というのが今回のこの論文における中心的テーマであるが、その答えを出すためには、前提となる私の基本認識を前編で縷々述べた。

私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政治、おおいに結構なことではないか。
なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが必要であることはいうまでもない。大リ−ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのである。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。
政治も音楽やスポーツと同じように、ひとつの文化だから、やはりエリート教育が必要ではないか? その際には今西錦司の「リーダー論」が基軸になると思う。

プラトンはその霊魂観に基づいて国家論を展開した。 今後、日本のリーダーには、プラトンの国家論を己の政治哲学として、真剣に国家の運営に当たって欲しい。わが国は21世紀において今後世界から尊敬されるには、知恵があり、勇気があり、節制があり、正義に満ちた国家でなければならないが、この四つの要素の内、複雑でいろんな意見が錯綜するのは「知恵のある国家」についてである。知恵にはいろんな知恵があり得るということだ。しかし、私は、「知恵のある国家」とは、ヘーゲルがいうように、宗教の力を借りるのではなく、啓蒙や教育によって、祖先の霊に「祈り」を捧げるとか、道ばたのお地蔵さんなどの神々に手を合わせるとか、そういう生活習慣が身についた大人や子供が少しでも増えるにしなければならないのではないかと思う。そのための生活環境とか社会環境の整った国家、それが私の目指す「知恵のある国家」であり、「山地拠点都市構想」である。すなわち、「神との響き合い」に満ちた生活環境と社会環境、それは「山の霊魂」と「奥」を意識して整備された「山地拠点都市」に他ならない。

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