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2015年4月21日 (火)

能の始まりは中尊寺か?

能の始まりは中尊寺か?

私の論文「邪馬台国と古代史の最新」第8章「歴史的直観力」第2節「諏訪大社の柱とソソウ神」の「8、立石寺と慈覚大師」と「 9、中尊寺と慈覚大師」に 秦一族は慈覚大師を応援する使命を帯びていたことを書いた。その要点は次のとおりである。すなわち、

『 大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬継(775〜826)がいた。朝廷の大戦略のもと、立石寺は創建されたのである』

『 慈覚大師円仁は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括していたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦一族の力を借りることができた。』

『 延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。』

『 立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令し、財政的にも支援したのは、時の権力者藤原冬継である。藤原冬継は、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、 藤原冬継(775〜826)は多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた不比等に匹敵するような人物である。若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従った。』

『  中尊寺は、もともとの寺は850年に慈覚大師円仁が創建し、859年に清和天皇(外祖父・藤原良房の後見の元、惟喬親王を退けて皇太子となる。文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位したため、良房が外戚として政治の実権を握った。藤原良房は藤原冬嗣の二男である。)から中尊寺の号を得たと言われている。』

『 慈覚大師円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされているので、立石寺の場合と同じように、誰か弟子をして中尊寺の創建に着手させたのではないか。』・・・である。

なお、秦氏と円仁(慈覚大師)との深い関係は、先に述べたが、中尊寺においても、秦一族活躍の痕跡がはっきり残っている。それは中尊寺の能楽堂である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyuusonno.pdf

能楽堂があるということは、当然、当時において能が舞われたということであるし、それは秦氏を抜きに考えられない。また、能楽堂の建築に当たっても、秦一族の高度な建築技術が駆使されたものと思われる。

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