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2015年3月16日 (月)

宮沢賢治と秩父

秩父における宮沢賢治の歌碑

 この山は
小鹿野の町も
見へずして
太古の層に白
百合の咲く
(保阪嘉内)

 さはやかに
半月かゝる
   薄明の
秩父の峡のか
 へり道かな
(宮沢賢治)

歌碑の所在地
埼玉県秩父郡小鹿野町大字下小鹿野 おがの化石館脇 
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E139.02.46.8N36.00.57.6&ZM=6

 

碑について
宮澤賢治が在籍した頃の盛岡高等農林学校では、二年生の秋に、埼玉県秩父地方へ地質学の研修旅行をおこなう慣例があったようです。1916年には賢治たちの学年が、翌1917年には一級下の保阪嘉内らの学年が、この小鹿野町を訪れています。
 現在この場所には、二人がそれぞれ小鹿野町に滞在した時に詠んだ歌が、まるで二人の友情を象徴するかのように、仲よく肩を寄せて歌碑になっています。
 碑の後ろに見えている崖は、地元の言葉で「ようばけ」と呼ばれる、地層の大露頭です。高さ100m、幅400mにわたって、見事な堆積層が観察できます。賢治たちがこの地を訪れた目的も、この地層を見学 して、付近で化石を採集するためだったのだろうと思います。
 説明によると、この地層は「新生代第三紀」のものだそうで、その時代には、このあたりは海の底だったということです。
 「新生代第三紀」と言えば思い出すのは、あの「イギリス海岸」(http://www.ihatov.cc/monument/020.html)の泥岩層です。賢治は、北上河畔のこの地層を、 やはり第三紀のものだろうと推定していました。さらに賢治は、その泥岩層から発見した化石をもとに、花巻のあたりもその頃は海だったと考えていたのです。
 賢治が、北上川西岸の地質に注目しはじめたのが、はたしていつ頃からだったのかはわからないのですが、その時頭の片隅には、この埼玉県小鹿野町で見学した印象がよみがえったかもしれません。

 現在、この地層の前には、「おがの化石館」という町立の施設が建っていて、この地で産した化石などが展示されています。「ようばけ」というのは、「夕陽」が当たる「はけ(崖)」という意味なのだそうです。

私は、今日(2015年3月15日)も私の愛犬ヒナちゃんに会いに小鹿野に行き、松井田からバスに乗って帰ってきましたが、松井田からは「ようばけ」が近くに見えますので、その点でも、宮沢賢治といえば大変身近に感じます。
















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宮沢賢治が秩父地方を訪れたのは、盛岡高 等農林学校 2 年であった大正 5(1916) 年の ことです(当時 20 歳)。9 月 2 日から 8 日 (推定)にかけて、熊谷から、寄居・長瀞・ 皆野・小鹿野町を経て三峰山へ登り、秩父 を経て再び皆野へ戻るという行程でした。  目的は、秩父地方の岩石や地質を見学す るためです。この旅行は、賢治が携わった 本格的な地質調査の一つです。賢治の地質 学は秩父よりはじまったといっても過言で はありません。この時賢治が採集したと思 われる岩石標本が、7点ほど発見されてい ます。

つくづくと「粋なもやうの博多帯」         荒川ぎしの片岩のいろ。
この旅行に際して賢治は 31 首の短歌を 詠んでいますが、そのうち長瀞周辺の結 晶片岩を例えて詠んだと思われるのがこ の歌です。

自然の博物館前の川原に下りると、赤みを おびた褐色の岩がみえます。この岩は、表 面が虎の毛皮のような模様なので、古くか ら「虎岩」とよばれて親しまれてきました。  虎岩をつくる、しま模様の褐色の部分は、
「スティルプノメレン」という鉱物からで きています。海苔状の結晶で、大きいもの では、長径が 5 ~ 6mm ほどになるものも あり、肉眼で見分けることができます。白 色の部分は石英や長石からできています。  虎岩の裏手にまわると、スティルプノメ

































宮沢賢治の歌碑
秩父自然科学博物館
日本地質学発祥の地


長瀞は、古くから地質学の研究が盛んに行 われていたところで、「日本地質学発祥の 地」といわれています。  明治 11(1878) 年、東京帝国大学理学部 地質学科の初代教授ナウマン博士は長瀞を 訪れて、調査を実施しています。2代目教 授となった小藤文次郎博士は、鉱物や結晶 片岩などを研究し、長瀞・寄居や四国で見 出したピンク色の美しい結晶片岩を、明治 21(1888) 年に世界で初めて「紅簾剥岩(紅 簾石片岩)」として報告しました。
宮沢賢治が秩父地方を訪れたのは、盛岡高 等農林学校 2 年であった大正 5(1916) 年の ことです(当時 20 歳)。9 月 2 日から 8 日 (推定)にかけて、熊谷から、寄居・長瀞・ 皆野・小鹿野町を経て三峰山へ登り、秩父 を経て再び皆野へ戻るという行程でした。  目的は、秩父地方の岩石や地質を見学す るためです。この旅行は、賢治が携わった 本格的な地質調査の一つです。賢治の地質 学は秩父よりはじまったといっても過言で はありません。この時賢治が採集したと思 われる岩石標本が、7点ほど発見されてい ます。
虎岩にみられるしゅう曲と黄鉄鉱

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