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2015年1月12日 (月)

山地拠点都市構想(その68)

山地拠点都市構想(その68)
第3章 知恵のある国家とは?
第2節 教育について
2、「勿体ない」の哲学
(2)モノ

さあ、そこでだ。何故「モノ」には「タマ」が宿っているか? 何故民芸品には作り手の「魂」が宿っているか? 私としては、この疑問に答えねばならない。私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「100匹目の猿が100匹」で説明したように、この世は「波動の海」である。あらゆる物質は波動の固まりなのである。民芸品など作り手の魂がこもっている場合やその地物に「祈り」を捧げている場合、その日と或いはその人びとの魂がその対象物の波動の一部と共振を起こす。人の魂と共振を起こす、その部分が上述した中沢新一のいう「かひ」なのである。柳宗悦は「阿弥陀仏の本願の力の恩恵」と感じたようであるが、要するに、「モノ」に「かひ」ができるのは「神のみわざ」なのである。
では、ここで、面白い説話を紹介しておこう。中国は六朝時代に「捜神記」に掲載されている「李の神木」という話である。

河南の南頓県に、張助(ちょうじょ)という百姓がいた。ある日、畑で働いているとき、李(すもも)の種を見つけた。どうしてこんなところに李の種が落ちているのだろう、と不審に思い、手に取って見たが格別変わった種でもない。誰かが投げ捨てたのだろうと思ってまた捨てたが、やはり気になった。ふと振り向くと、道ばたの古い桑の木の根元にう洞(うろ)があって、中に土がたまっていたので、また種を拾ってそこに埋め、水をかけておいた。翌年、人びとは桑の木の洞から李が生えているのを見て不思議に思い、次から次へと噂し合った。 張助はそれを聞いて、何の不思議があるものか、俺が植えたんだ、と思ったが、黙っていた。李の木はだんだん大きくなった。ある日、眼の痛む男がその木陰で休みながら、「李君(りくん)よ、俺の眼の痛みを治しくれたら、お礼に豚を一匹あげるよ」といったところ、急に眼の痛みがやわらぎ、数日立つとすっかり治ってしまった。その男が李の木に豚を供えたことから、噂が広がって、遠くの村からも願(がん)をかけにくる者があり、願い事のかなった人が祠(ほこら)を建てたり、供え物の台を設けたりして、李の木の下にはいつも大勢の人が集まり、道ばたに物売りが並ぶありさまであった。 張助はそれをみてばかばかしくてならなかった。ある日、大勢の人が集
まっているところへいって、「この木は俺が植えたんだ、神木なんかじゃない」と言って廻ったが、誰も相手にしない。 張助がなおも言い立てていると、一人の男がおしとめて、「そんなことを言うと神罰が当たるぞ。ほら、もうあたっているじゃないか」と、 張助の顔を指差した。 張助の口の脇には数日前から疔(ちょう)ができていて、痛くてならなかったのである。「これが神木なら、俺のこの疔も治せる筈だ」と 張助がいうと、その男は、「願をかけたらな」といった。そこで 張助はみんなのするように李の木の前にぬかずいて、「この疔を治してくださったら、お礼に酒一升さしあげます」といってみた。と、急に疔の痛みがやわらいだ。 張助は半信半疑で家に帰ったが、二、三日たつと疔がすっかり治ってしまったので、びっくりして、酒一升を供えたという。

如何ですか?こんな話を信じられますか? 私はそういうことも科学的に起こりうると思っている。私は、よく「角大師のお札」の話をするが、お札にはそれを刷った人の魂が籠っているので、それによって願いが叶うのである。

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