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2014年12月10日 (水)

山地拠点都市構想(その56)

山地拠点都市構想(その56)
第3章 知恵のある国家とは?
第1節 「奥」の思想
4、 日本集落の構成原理(園田稔)

 『かつて農村工学の神代雄一郎(こうじろゆういちろう)は、日本の風土や文化にふさわしい農村のコミュニティ原理を発見するための実態調査を積み重ねるなかで、中国大陸や欧米に広く営まれてきた「広場村」つまり集落の中心に公共的な広場をもつコミュニティとは極めて対照的な「街村」、つまり一本の道路の両側に家並みが連なるという、彼が「紐状集落」と名付けた集落形成が日本の農村にほぼ共通する特色であることを見出だしたが、さて彼が当惑した点は、この街村を住民たちのコ ミュニティたらしめる公共の中心がどこに発見されるかということであった。近年しきりに国内各地で発掘される弥生時代の環濠集落も含めて大陸的な広場村であれば集落中央に共同の広場があって、現存する史的形態ではそこに集会のホールや神殿ないし教会の施設が歴然とコミュニティの中核を明示するが、彼のいう 日本の「紐状集落」には、日本語のムラの語源である家々のムレ(群れ)を成すにしてもそのムラを統合する中心施設がその内部に見当らないことに、彼は当惑したのであった。しかし苦心の末に神代雄一郎(こうじろゆういちろう)がこの当惑を解消した結論は、村の背後にいずれも「姿の良い山がある」という命題であった。そしてその山の麓に鎮守の森があって、それが等しく街村の裏手や奥に鎮座する村氏神を構成しているという形態こそが、一見しては家々の群れでしかない農村集落が、それでも村落協同体を実現し保持する文化的な仕組みであることを、神代(こうじろ)は発見したのであった。彼が論じるその仕組みとは、まず道路を挟む「向こう三軒両隣り」という六戸の近隣単位があって街村全体が「往還」ともいう表通りを日常的には〈社会経済軸〉にして、外部の他町村とも交流しているが、毎年の春秋などの氏神祭礼には 街村の裏手に当たる鎮守の社を通して神体山の神が神興などの行列を成して出御し、集落の「往還」をいわば横断ないし縦断する形でその一角や耕地や或いは川岸や海浜の臨時祭場(仮宮・旅所)に招迎される。こうして祭礼において出現する氏神往復の「神の道」こそが非日常的な〈宗教軸〉であって、この際にこれが 〈社会経済軸〉たる「往還」と交錯する地点がいわゆる「ちまた(巷=道股)」ともなって、そこに聖なる「市」が立つコミュニティの中心が出現するというわ けである。
 イチをマチと同義にして両語を言い換える例も枚挙にいとまない。特に近世の農村地帯に盛んであった「日限市」「特に月に三度の三斎市が立つ市場で は、三日市、五日市、六日市、八日市、十日市などはいずれもイチともマチとも呼び慣わして地名になる例が多い。交易が盛んな土地では、六斎市が立って月に 六度の定期市が立つような集落にはイチバともマチバ、あるいは村方にたいする町方とも称され、やがて常設市として市町を名乗るようになった。しかもそうし た市町や市場町は近くの有力な神社の門前市に由来しているか、あるいは市場の一角に市神を祀って市の安全や繁栄を祈っている例が多いが「いずれにせよイチ がマチであることは、ムラにとってのマチがすなわちマツリという祝祭の非日常的な時空間であって、人心が沸き立つような賑わいと交易や芸能が盛んに営まれるコミューナルな現象世界であることを意味している。日本語の二分範疇を使うならば、日常のケ(褻)の状態にあるムラ社会が時に非日常的なハレ(晴)のイ チやマチの状態の実現をめざすことになる。その意味で、マツリは本来ムラのマチ化を指すのであって、それが盛んで力強いマツリであればあるほどムラに活気 あるイチ化やマチ化をもたらすことになる。
 実はもう一つ言及すべき大事な論点がある。それは、柳田が「町と称しながら三方里五方里の大地域を含み深山を含む」といゝ、また神代(こうじろう)が村の背後に 「姿の良い山がある」といったように、日本の集落構成には周囲の自然風土や景観がコスモロジーとして参入してこそ家郷性を帯びたコミュニティが完成するという原理である。別に言いかえれば、古来日本人の神聖な秩序観念には、日常的なコスモロジーの中心を人工的な生活世界の中央に見える形で求めるのではな く、むしろ生活世界の「奥」ないし「源」とも言える周縁的に隠れた形に求めるという傾向が強いのである。そのことは、たとえば国語学の阪倉篤義など近年の カミの語源論の成果にみるように、日本語のカミには本来的に水源の山谷にひそむ隠れた生命的霊性を指す意味がある。偶像など形を見せぬ神霊は、豊かで清浄 なカムナビ(神山)やモリ(杜)、ヒモロギ(神樹)やイワクラ(神石)などをヨリシロ(憑代)にして宿る精霊であって、里宮である神社も普段は深い鎮守の森こそが祭神が奥深く鎮まることを暗示する。
 したがって村が町になり都市になって結果的に神社が市街地に囲まれても、基本的には鎮守の森深く鎮座する形で日常的には森の自然に籠もるという様式は変わっていない。そして住民たちは、大陸的な都市集落のように都心に天高く費える大聖堂の威容に安心するのではなく、むしろ周辺風土の豊かな自然の霊性を鎮守の森に迎え人れているというコスモス的な「奥」ないし「本源」という形象に、家郷としての精神的安定を得てきたことを見逃すべきではない。
  この点については、建築学の榎文彦や上田篤が都市の路地裏の神社や鎮守の森の意義に関連して論じてきたが、近年ではフランスの地理学者オギュスタ ン・ベルクが彼の邦訳書『空間の日本文化』(昭和六〇年)のなかで「奥」や「裏」を日本的空間の特性として本格的に論じている。
 とにもかくにも鎮守の森が、日本的集落のコスモス的座標として、しかし集落の中央を占めるのではなく集落の周縁にその「奥」を構成し、しかも背後 の住民生活を支える霊的な風土をも表象するという、いわばコミュニティ文化としての家郷の造形は、明治以来の都市文明化の大波にほぼ埋没してしまったかに 見える。』・・・と。

「山地拠点都市」では、深山に繋がる「奥」という空間を念頭において宗教軸(祭りの軸)を考えねばならないが、現実には、すでにそういう地域構造が壊れてしまっているので、なかなか難しい問題であるかもしれない。それこそ「知恵」を働かせて、深山に繋がる「奥」という空間というものを何とかつくり出していかなければならない。





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