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2014年12月13日 (土)

山地拠点都市構想(その59)

山地拠点都市構想(その59)
第3章 知恵のある国家とは?
第2節 教育について
1、 一般論

知恵のある国家は知恵のある国民で成り立っている。知恵のある国民を育てるには何といっても教育がもっとも大事だ。教育には、胎児教育、幼児教育、少年教育、青年教育、壮年教育、老人教育があるが、それらのあり方をもっと深く考えて、それぞれの年代に応じた適切な教育を施さなければならない。
また、教育には、学校教育の他に、家庭教育、地域教育などがあるし、秀才教育というかエリート教育というようなマンツーマンの個人的なレッスンもある。だいたい家元制度に乗っかったお稽古ごとやピアノやバイオリンなどの音楽教育、さらにはオリンピック選手を育てるようなスポーツ教育などはそうであろう。これらについても、その普及をもっと深く考えていく必要がある。
さらに、教育には、その内容によって、道徳教育、歴史教育、文化教育、体育、社会教育などがあるが、これらについてもその適切な方法を考えねばならない。教育問題というのは、考えねばならない要素が実に多く、ここでそれらをすべて話するわけにはいかないので、日頃私が気になっている点だけをここでは述べることにする。

(1)胎児と幼児のための母親教育
私は電子書籍「エロスを語ろう・・・プラトンを超えて!」の第5章「第5章 恐竜型脳と新哺乳類型脳とのバランス」で次のように述べた。
 私たちは今こそ新たな「エロスの神」を創造して正しい人生を歩まないと「個人の幸せ」はおろか「種の保存」すら危なくなる恐れがある。イギリスの医学ジャーナリストであるロイ・リッジウェイという人の言うところによれば、「多くの子供から助けを求める悲鳴が聞こえてくる」のだそうだ(「子宮の記憶はよみがる」1993年1月、めるくまーる)。

彼はこのように訴えている。すなわち、
『 自分ではどうしようもない「死の恐怖」におびえているのだ。考えてもみたまえ!母親が、女性が、そして多くの識者が、女性の身体の秘密を知らなさすぎる。懐妊の前のタバコや飲酒、あるいは情緒不安的な生活は、知能の低い子供とか五体不満足な子供を出産する可能性が高いと言われているのに、若い女性でタバコを吸い酒に飲まれている人あるいは生活が乱れている人が少なくないではないか。』と。

 子供は社会の宝である。プラトンの「エロス論」はそのことをいちばん訴えているのだが、はたしてプラトンの「エロス論」で十分現代に対応できるのか? 私は、21世紀の世界に通用する新たな「エロスの神」を創造する必要があると考えているのだが、その場合、ギリシャのエロス神ではなく、シヴァの神を基本に据えなければならないのではないか。そうでないと・・・「さまよえるニーチェの亡霊」は浮かばれない!
 ニーチェの哲学は「命の哲学」だ。彼の多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生きる上での最高の価値であって、それは「子どもは社会の宝」であるというこことだ。先に書いた「さまよえるニーチェの亡霊」(平成24年6月、新公論社、電子出版)の結論だけを言っておきたい。詳しくは同著を読んでいただきたい。
 ニーチェの多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生きる上での最高の価値であって、それは「子どもは社会の宝」である。人は何のために生きているのか? 私たちは「生きていくために生きている」のである。では、その生き方はどうでなければならないのか? 「子どものために生きる」のである。子どもは自分の子どもでなくてもよい。
昔、乳母というものがあったし、自分のおばあちゃんに子どもの面倒を見てもらうということも少なくなかった。母親というのは、昔から結構自分の仕事に忙しく、子育てはおばあちゃんに任せていた。高貴な人は乳母にお願いしていたかもしれないが、子育てはおばあちゃんの役割というのが少なくなかったのである。おばあちゃんが人生の中で身に付けた感性とか人生訓とかいろいろなノウハウを孫に伝達してきたのである。そのお蔭で人類はここまで発展してきたという「人類発展おばあちゃん説」という学説があるが、今までおばあちゃんの存在はきわめて大きかったのである。

 現在は、核家族であるので、それを望むべきもないが、もし田舎でも移住が可能であれば、家族農業をやりながら、昔の大家族の生活をするのも非常に価値がある。しかし、それが難しい場合も多かろうと思われるので、私は、都市を生きる人たちに「文化を生きる」生き方も立派な生き方であると申し上げているのだ。子育てに生きるか文化に生きるか二者択一であるが、いずれの場合であっても、エロスの神に「祈り」を捧げ、人生をイキイキと生きていってもらいたい。エロスに神に「祈り」を捧げるということは、まずは自分自身が自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけるように祈ることに他ならないが、それも結局は子どものためである。ニーチェは人類のためとか種の保存のためという趣旨のことを時々言っているけれど、それは子どもが私たち人類の「命」を繋いでいるということなのである。まさに、子どもは人類の宝である。子どもの健やかに育つことを祈らずにはおられない。


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