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2014年12月24日 (水)

山地拠点都市構想(その64)

山地拠点都市構想(その64)
第3章 知恵のある国家とは?
第2節 教育について
2、「勿体ない」の哲学
(2)モノ

まず、「モノ」についての中沢新一の説明を紹介しておきたい。
『 狩猟時代の古い日本語をしゃべる人びとに、あなたたちの幸福とはなんですか、という質問をしたならば、「それはあなた、さちの力によって、森 のタマ(霊力)が動物のからだというモノをまとってあらわれたその動物たちを、うまく仕留めることができることですよ。そうすれば、タマの霊力が私たちに も分け与えられ、生命は増し、私たちはこよなく幸福(さち)を味わうことができるのです」などという答えが、返ってくるにちがいない。「さち」ということ ばは、この場合、モノという容器(これが狩猟の場合には、動物のからだということになる)に含まれて人間の前にあらわれた森の多産力をあらわすタマを、そ の容器を破壊することによって、抽象的な力として取り出して、自分たちの体内に取り入れるための、一連の技術(技芸)とそれに使用される道具のことを指していた、と考えるおことができるだろう。
狩猟の過程は、鎮魂の過程とちょうど鏡面対称のような関係にある。鎮魂では、内包空間で充実しきった成長をとげたタマが、「かひ」の容器を破っ て、外気の中にものとなってあらわれてくる。ところが狩猟では、モノ(動物のからだ)の容器を破壊して、その中から森のタマを純粋な抽象形態で取り出し て、人間たちが自分の体内に取り込むことで、幸福の感覚を味わっている。鎮魂では物部氏の技芸である「霊体を結修する鎮魂の法」がそこにおこるタマの変容 をうながしていた。それが狩猟では、「さち」の技芸能力によって、霊力の取り込みがおこなわれるのだ。どちらの場合にも、それぞれの技術が、タマの変容を 媒介している。そして、非感覚的な霊力と物体性とが、おたがいを交換しながら、技術によってひとつに結びあわされ、鎮魂法と狩猟とはひとつの円環をなしている。 』

 タマはモノに変容する。タマは見えない。それが見えるようになったものがモノである。だから、モノにはタマが 宿っている。そこが物との違いである。まあ、大ざっぱには、タマとモノとは同じようなものである。したがって,「モノとの同盟」とは、物とモノとの同盟である。物とタマとの同盟と考えてもまあ見当違いではないかもしれない。
しかし、今私たちが問題にしようとしているのは、この世の問題である。見える世界の問題である。見える世界から見えない世界が感覚として実感できないかという問題である。だから、モノを対象にしなければならないのである。物質的な世界は当然肯定しながらも、モノの世界をどう取り戻すことができるかが問題なのだ。モノの世界と物質的な世界との同盟、それが中沢新一のいう「モノとの同盟」で ある。
ちなみに、「東北学(第9巻)」(2003年10月、東北芸術工科大学東北文化研究センター)に掲載された中沢新一の特別論考「縄文・ミシャグ チ・道祖神・・・環太平洋神話学への一試論」によると、宮廷でおこなわれてきた鎮魂の方法には、猿女の鎮魂法、物部の鎮魂法、安曇の鎮魂法があるのだが、 大衆レベルでいえば、丸石道祖神は「タマしずめ」であり、双体道祖神は「タマふり」である。「モノとの同盟」を考えるとき、「タマしずめ」と「タマふり」 の二つがあるという点は重要である。

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