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2014年11月 5日 (水)

山地拠点都市構想(その31)

山地拠点都市構想(その31)
第2章 自然の再認識
第3節 田舎と都市

 百姓の思考は「野生の思考」と言っても良いのではないか。 百姓の心は野生の心。 百姓の精神は「野生の精神」。こう考えると、百姓の行う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出しているのではないかと思えてくる。

 これからの理想とする地域づくりは、もちろん西田哲学や田辺哲学を十分理解しながらも、私は、中沢新一の「モノとの同盟」という考え方が大事であり、心を大事にしなければならないと思う。私は宇宙と響きあいと言っているのだが、感性を大事にしなければならない。都市の人々においては、田舎の自然に触れるだけでなく田舎の人々との触れ合いによって素晴らしい感性が身に付く、そうことが多いのではないか。

 田舎の地域づくりは、まず「スピリット」、これは鬼や天狗や妖怪などと言い換えてもいいのだが、そういう妖しげなものが立ち現れうるような「場所づくり」から始めなければならない。わかりやすく言えば、河童の棲む川づくりとか天狗の棲む森づくりである。トトロの棲む森づくりでもいい。子供のための「脳と身体の学習プログラム」が展開できる場所づくりと言っているのだが、子供たちが感性を養い身体を鍛える学習プログラムを作って、それを全国いたる田舎に展開しなければならない。私は今までこういう中沢新一のいう「スピリット」の重要性を主張してきたが、「農」の重要性というか農作業のモノ的性質については考えたことがなかった。しかし、実は、農作業というものは、「モノ的技術」であり、「野生の心」と大変深い関係があるのではないか。そこで「モノ的技術」というものについて考えてみたいのだが、まず中沢新一の言っていることを紹介しておきたい。詳しくは (中沢新一、「緑の資本論」2002年5月、集英社)を読んでいただきたい。

 中沢新一は、「モノ的技術」について次のように述べている。

 『モノ的技術は、こんにちのグローバルスタンダードであるピュシス的技術が作り出す世界とは、異質な世界を作り出す能力をひめている。』
『モノ的な技術は、ピュシス的に思考された技術とは違って、増殖や変容や分裂に、つまり一定不変で変化しない同一性を思考することができないような現実に対して適用され、真理ではなく、人間に具体的な幸福(さち)をあたえるのだ。』
『モノ的技術は人間の宗教の根源である「信」ということに、深くかかわってもいる。』・・・と。


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