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2014年11月 6日 (木)

山地拠点都市構想(その32)

山地拠点都市構想(その32)
第2章 自然の再認識
第3節 田舎と都市

 「ピュシス」とは、古代ギリシャ語のようだが、かの偉大な哲学者・ハイデッガーが好んで使った哲学用語であり、ヨーロッパに端を発する近代文明を支える哲学の底流を流れる概念である。日本語では「立ち現れること」と訳されているが、自然物など存在するもの全てに本質的なものがあり、確かな真理というものがある。それは一定不変である。ひとつのものにいろんな姿があったり、いろんな性質があったりはしない。本質的なもの、真理というものはひとつしかない。こういう考え方がヨーロッパに端を発する近代文明を創(つく)っている。だから、上記の引用文中の「ピュシス的技術」とか「ピュシス的に思考された技術」とは近代技術と言い換えても良い。
 本質がどうのこうのとか真理がどうのこうのとか、そんな難しいことは別として、現実というか実際のところは、自然物など存在するもの全てが増殖又は分裂するなど変化している。それが現実であり、現実の社会では、真理がどうのこうのより、具体的な幸(さち)が大事なのである。古代の人はそう考えたのであり、「野生の思考」というか「モノ的思考」とはそういうものである。

 「モノ的技術」は「モノ的思考」にもとづく技術であり「ピュシス的技術」とは異質のものであるが、中沢新一は、「「モノ的技術」は現代文明とは異質の世界を作り出す力を秘めている」と言っている。現代文明は、市場経済によって「心」の面で行き詰まっており、田舎の地域づくりにおいても「心」を重視しなければ今後の展望がまったく開けないところまできている。田舎こそ「モノ的技術による地域づくり」を進めなければならないのである。

 では、具体的にどうすれば良いか? そこが問題だが、結論を先に言えば、中沢新一が言っているように、「モノ的技術」はけっして市場経済一点張りでは発達しない。「信」を前提に成り立つ贈与経済によってしか発展しないのである。そして、その贈与経済を支える産業が「農」なのである。このことを強調しても強調しすぎることはない。
 しかし、「農」というものはそれだけにとどまるものではない。先述したように、私は、 百姓の思考は「野生の思考」と言っても良い。 百姓の心は「野生の心」。 百姓の精神は「野生の精神」。今私は「野生の心」のより強靭なものを「野生の精神」と呼んでいる。百姓はおおむね「野生の心」を持っているし、村の祭りによって「外なる神」の力が働いて、地域には「野生の精神」も生まれでてきていると思う。こう考えると、百姓の行う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出しているのではないか。

 中沢新一いうところの農業が純粋贈与であることの意味は大きい。したがって、三ちゃん農業などの家族農業は、「地消地産」の原理原則に則って、しっかり守らなければならない。

 なお、ちなみに言っておけば、地産地消は生産者の論理であり、こういうものを生産したからそれを消費せよというもの。地消地産は消費者の論理で、こういうものを消費したいからそれを生産しろというものである。これからは電気も地消地産でなければならない。地域で消費するから小水力発電など地域で発電しようという訳だ。地域の自立のため
には地消地産でなければならない。贈与経済はそういうものだ。

 田舎において人びとがイキイキと生きていけるようにするには、まずは贈与の世界、つまり地域通貨の世界を田舎に作らなければならない。それができれば、都市で働き口がなく、経済的に苦しんでいる人たちが田舎に移り住むことができる。地域通貨については、その実践論など言いたいことがいっぱいあるけれど、ここでは、「田舎を生きる」ためには、贈与経済が不可欠であるということだけを指摘するのとどめたい。


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