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2014年11月 1日 (土)

山地拠点都市構想(その27)

山地拠点都市構想(その27)
第2章 自然の再認識
第1節 故郷(自然)の再認識

 「さまよえるニーチェの亡霊」(平成24年6月、新公論社、電子出版)でも述べたが、私は、ハイデガーは、技術こそ人間の思い上がりの象徴であって、これこそデカルトに端を発する西洋文明の間違いだと主張しているのだと思う。これからは今までとは逆に、技術が進めば進むほど神が近く感じられるようにならなければならない。神は、歴史的に見て、いろいろな国というか場所で、いろいろな場面場面というかいろいろな時に、人びとに感じられてきたというか現れてきた。しかし、そういう神の立ち現れる場所というのはどういうところなのか? すなわち、神は時空を超えて現れるのだが、そもそも神の立ち現れる場所とはどこなのか? それは「故郷」だ。そういう意味でで故郷という言葉が使われており、必ずしも私たちが日頃使っているな意味での故郷ではない。しかし、私は、ハイデガーのいう「故郷」を私たちの日頃使っている故郷というか田舎、それももう少し具体的に言えば「山地の都市」をイメージしている。
 神の投企は、時空を超えてある。しかし、人間はなかなかそれを受け止めれない。技術的な世界(都会)よりも、自然的な世界(田舎)の方が受け止めやすい。ホワイトヘッドの言葉でいえば、「抱握」(フィーリング)しやすい。故に、私は、故郷再生、田舎の再生に旗を振っているのだが、その心は「自然」にある。自然は神の投企をそのまま受け止め、私たちにもそれが容易に「抱握」(感じる)ことができる。技術は神の投企を隠してしまって私たちには容易に「抱握」(感じる)ことができなくする。そこが大問題なのである。

 ハイデガーのいう「投企」や「抱握」は神からの贈与である。中沢新一はその著「日本の大転換」で、脱電発や農業の再生という問題は、今こそ取り組むべき緊急課題であるとして、贈与論を展開した。また、私は、「祈り」の科学シリーズ6(20012年5月、新公論社、電子出版)で、贈与経済の貨幣・「地域通貨」の必要性を書いた。その要点を次に述べる。


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