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2014年11月11日 (火)

山地拠点都市構想(その33)

山地拠点都市構想(その33)
第2章 自然の再認識
第3節 田舎と都市

(2)都市を生きる・・・文化を生きる
 技術の世界にも神がいない訳ではない。見えにくくなっているというだけだ。
 結婚は「神とのインターフェースである」である。縁に恵まれば、思い切って結婚はした方が良い。だからといって、結婚をしないで文化を生きる、そのような生き方が否定される訳ではない。なぜなら、エロスは、自然と技術や田舎と都市という対立概念、或いは西洋と東洋という対立概念を超越しているからである。しかし、都市においても結婚の道を選んだ人は、エロスの神を信仰しなければならない。都市を生きる人には、さまざまな人がいる。神を信じない人もいるだろう。都市では神が見えにくくなっているから仕方がない。それはそれでいい。自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけば良い。つねに重力の魔がその邪魔をするから、しょっちゅう挫けそうになるかもしれない。しょっちゅう危機に直面する。そのときは「力への意志」が働いて、神の「投企」が働くかもしれない。そのとき、それまで神を信じなかった人でも、神の「投企」、すなわち神の力、神の恵みを感じるであろう。自然を生きる、都市を生きる、文化を生きるということはそういうことだ。
 都市に生きる人は、子育てに生きるか文化活動に生きるかの、二者択一をしなければならない。人生の途中で方向転換をしてもよい。結婚生活をあきらめて文化活動に専念しても良いし、独身主義であった人が文化活動をあきらめて結婚生活に踏み切っても良い。しかし、子育てに生きる人は、年齢の如何を問わずエロスの神に「祈り」を捧げなければならない。それが私のいちばん言いたいことだ。都市は、神の贈与に働きにくい市場原理の渦巻く競争社会である。それについていけない敗者がいるのはしかたがない。そういう人は、都市でも見られる贈与世界を必死で探し出し、どうしてもそれが見つからないときは、最終的に田舎に移転することが必要である。田舎でさえ、贈与社会ができている訳ではないので、田舎に移転しても、現状ではなかなか食っていけないかもしれない。将来は必ず田舎は贈与の世界、助け合いの世界に変わるとは思うけれど・・・。今のところは、田舎で食っていくのも決して容易ではない。しかし、私は、将来の可能性を信じて、都市で食っていけない人は田舎に移転すべきだと考えている。都市は厳しい競争社会であって、弱者には本質的に適合し得ない場所である。そんな場所には一日も早く見切りをつけるべきだと考える次第である。

 したがって、都市というのは、強者が文化に生きる場所である。では、文化とは何か? 
文化というものを本格的というか哲学的に論じたのは、ホワイトヘッドが初めてである。ホワイトヘッドの文化論は、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。延原時行は、その著「「ホワイトヘッドと西田哲学との<あいだ>・・・仏教的キリスト教哲学の構想」(2001年3月、法蔵館)で、ホワイトヘッドは延原時行のいう「諸原理の現実変換」の問題を「観念の冒険」と呼んでいる、として縷々論じているが、これすら容易には説明できないし、ましてやホワイトヘッドの文化論はきわめて説明しずらい。彼独特の哲学用語の説明が結構厄介であるということだ。それを解説していると日が暮れる。そこで文化という哲学的な意味を私流に判りやすく説明したい。

 ホワイトヘッドは、文化とは「文明化された宇宙」であるという。私は、拙著「祈り」の科学シリーズ(1)「100匹目の猿が100匹」(2012年5月、新公論社、電子出版)で述べたように、私たちの脳には「内なる神」が、また宇宙(天)には「外なる神」が存在する。それが響き合うのである。波動の共鳴現象である。これを「協和」という言葉で表現した方がが思想的には良いが、判りやすくいえば「響き合い」である。


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