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2014年9月13日 (土)

霊魂の哲学と科学(その59)

霊魂の哲学と科学(その59)
第7章 怨霊と御霊信仰(5)

では、いよいよ怨霊と御霊信仰の話に入っていこう。それでは、引き続き、臼田乃里子の「供犠と権力」の中から、怨霊や御霊信仰に関する要点を紹介していこう。

16、御霊信仰では国家権力の内部にあって悲惨な死を遂げた生贄から狩猟者へと生き抜く歴史を生き抜く。
17、祟りを克服し、内面化すること。ここに、天の支配の秘儀があり、御霊信仰の秘密が隠されていた。この祟り信仰にもとづいた、新しい権力形態を繰り広げたのが仏教徒であった。
18、大化の改新(645年)で仏教推進派の蘇我馬子が殺されたが、仏教は衰えるどころか、神祇祭祀とともに天皇を頂点とする律令国家の支柱となっていった。これは、密教僧が怨霊のもたらす一切の罪、穢れ、災害などすべてを経によって怨霊会で祓い除くことが可能であると宣言したからだ。祟り調伏として用いられた大般若経は、その理論的要素が剥奪され、祓いの呪法に変えられた。「僧尼令」が出された時、仏法以外の呪術、占いで病を治すことが国家によって禁止され、仏教の特権化が更に進んでいった。これは、日本文化の根底に潜む仏教思想がいかなるものであったかを教えている。国家仏教とは天神
の祟り、国家の鎮護、道教の鎮魂儀礼を吸収した祟り体系だったのであり、犠牲者と加害者の立場を転倒させさえするメカニズムを有していた。

19、天は全てを支配する。これはイデオロギーではなく現実問題である。旱魃が続いた時、カトリック教会は聖人像を水の中に投げ込み、祈雨を願ったが、これは歴史上、決して奇妙な行為ではない。聖なる死者こそが天地の媒介者としてもっともふさわしかったからである。日本の古代国家も、ありとあらゆる手段を使って雨乞いをした。御霊会もその歴史の残滓であり、地域によって多様化してはいるが、多くの御霊神社が名水に関わってきた。御霊会は疫神を遷却するために始められたと言われ、祭日は随時的であった。五、六月に行われることが多かったが、疫病が流行しなかった年は行う必要がなかった。社殿や鎮座地も本来は存在していなかったのである。しかし、国家が御霊会を正式に取り入れることで、その姿は政治的なものに変貌した。この変貌を明確に表しているのが、「三代実録」に記された貞観五年(863)の記録である。疫病が流行したため、対処に悩んだ朝廷は京都の神泉苑で六体の御霊を祀ったとある。霊座に花束が供えられ、金光明経一部と般若心経が読まれたというが、この法会の特徴を義江彰夫はうまく描き出している。「怨みの心を慰めながら、同時にそれをかき立て、盛り上げるかのようなものであった。」そして、法会を営んだ人びとは怨霊を敬意の念を込めて御霊と呼んだ。ここで注目すべきことは、怨霊の慰撫だけでなく、怨霊の超越的な存在が儀礼の中で転換され、疫病退治に用いられていることである。御霊が疫病の原因とされていると同時に疫病退治に利用されているのである。鎮めながらかき立てるという言葉は私たちに物部氏の鎮魂儀礼を思い出させる。このとき、雅楽寮の楽人が音楽を奏で、天皇近侍の児童および稚児によって大唐舞や高麗舞といった異国の舞が演じられた。この御霊会の二年後に、国家は一般民衆が御霊会を催すことを禁止している。これは、祈雨や疫神を送り返すことができる御霊信仰の転倒的な力、供犠の独占化でもあったのだが、ここに密教僧が深く関与していた。

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