« 霊魂の哲学と科学(その54) | トップページ | 霊魂の哲学と科学(その56) »

2014年9月 9日 (火)

霊魂の哲学と科学(その55)

霊魂の哲学と科学(その55)

第7章 怨霊と御霊信仰(1)

臼田乃里子の「供犠と権力」(2006年12月、白地社)という素晴らしい本がある。
「供犠」に付いてこれほど突っ込んだ考察をした論考を私は知らない。彼女は、 日本にも「いけにえ」(供犠)の文化があったということ、怨霊は「供犠」であるということ、そして御霊(ごりょう)という「神」は怨霊が変身したものであるということを、主張しているのである。谷川健一もその著「魔の系譜」の中で怨霊について縷々述べているけれど、臼田乃里子の方がより深い考察を加えている。そこで、私は、怨霊について、臼田乃里子の「供犠と権力」から、今まで私の書いてこなかった知見を皆さんにご紹介して、私がかって書いた電子書籍「祈りの科学シリーズ(3)」「怨霊と祈り」の補足資料としたい。私の「怨霊と祈り」は次の電子書籍を是非ご覧戴きたいと思う。
http://honto.jp/ebook/pd_25231956.html

天神、神田明神、鎌倉大仏は、怨霊信仰がもととなって建立された。日本の三大怨霊は菅原道真と平将門と源頼朝である。今や守護神に変身しているが、それら三大怨霊の力が抜群に大きかっただけに、天神さんや神田明神や鎌倉大仏のお利益は絶大である。せいぜいお参りをして欲しい。怨霊信仰は時代とともに進化して村の祭りとも繋がっていく。 祭りの最大の意義は、「外なる神」との交信にある。人々と「外なる神」との響きあう重要なインターフェース、それが村の祭りである。「祈り」こそ大事。今後、世界共通の「祈り」を創っていかなければならないと思う。

私はこういうことを電子書籍「怨霊と祈り」で主張しているのだが、何故怨霊が守護神に変身するのか、ということはまったく触れていない。その理由が判らなかったからである。しかし、今は、臼田乃里子の「供犠と権力」を勉強して、怨霊が「供犠」であることが判ったので、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」「<100匹目の猿>が100匹」で述べた「波動」に関する知見とを重ねあわせると、怨霊が守護神に変身する理由が見えてくる。臼田乃里子はそこまで書いていないけれど、私は、臼田乃里子の「供犠と権力」の要点を紹介した後で、そのことに触れてみたい。まずは、臼田乃里子の「供犠と権力」の要点をまず最初に紹介しよう。

1、日本文化の深部にこびりついている存在として「供犠」がある。それを歴史・民俗学はいろいろと語ってきた。
2、供犠に関する用語、「犠牲」「人柱」「生け贄」「はたもの」等はどういった文脈で日本文化の諸要素と結びついているのか。
3、生け贄はそれ自体では何の価値ももたない。権力の介入を通じてのみ、その価値観が獲得されるのである。
4、生の豊かさがあるように、死の豊かさもまたあるのだ。
5、人は供犠を行うことにより生来の動物性を破壊し、その残余としての非肉体的な真実だけを存続させようとした。肉体をともなわない真実こそが、人を「死に向けての存在」(ハイデガー)に、あるいは「人間的な生を生きる死」(コジェーブ)に値するものへと昇華させる。供犠では、肉体が死にゆくものとして存在するにも関わらず「死が人間的な生を生きる」のだ。
6、「1889年1月3日ニーチェは狂気に屈したのだった。トリノのカルロ・アルベルト広場で、彼は啜り泣きながら、鞭打たれる馬の首にすがりつき、ついで昏倒した。目覚めた時、彼は信じ込んでいた。自分がディオニソス、あるいは、十字架にかけられし者であると。この出来事は悲劇として記念されなければならない。ツァラトゥストラは次のように言っていたのだ。<生ある者が、自分自身にしたがって生きようとするときには、この生ある者は自分の権力をつぐない、自分自身の掟による裁き手、その復讐者、そして犠牲とならねばならない。>と。」・・・とタルコフスキーは「サクリファイス」(河出書
房、1957年)で述べている。
7、ヘーゲルも歴史を神の示現、「世界精神」の顕われだと信じた。歴史の中で起こりえることは「世界精神」が欲したものであるのだと。ニーチェの「神の死」はこのユダヤ・キリスト教の信仰の延長線上にあった。しかし、ニーチェのいう回帰とは同一なものの回帰ではない。選択的な思想であり、存在に関わるものである。なぜなら同一なるものの回帰は生成を拒むからだ。

« 霊魂の哲学と科学(その54) | トップページ | 霊魂の哲学と科学(その56) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/57318937

この記事へのトラックバック一覧です: 霊魂の哲学と科学(その55):

« 霊魂の哲学と科学(その54) | トップページ | 霊魂の哲学と科学(その56) »