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2014年9月 2日 (火)

霊魂の哲学と科学(その49)

霊魂の哲学と科学(その49)
第6章 霊魂の科学(17)
第6節 霊魂と国家(6)
2、正義について(5)

(4)民主主義国家について

 民主主義国家であるかどうかの基準は、いろいろあると思うけれど、私は、フランク・フクヤマの次の基準が良いと思う。イ、相対立する複数立候補者が存在する、自由で、無記名で、定期的な男女普通選挙の実施。 ロ、普通選挙によって構成された議会が立法権の最高権限を持っていることの憲法などの公式文書での明文化。 ハ、議会内における相互批判的な複数政党の存在。 ニ、自由で多様な行政府批判を行う国内大手メディアが存在し、それを不特定多数が閲覧できること。
 世界には多様な民主国家が存在しているが、これらはおおむね共通して存在する基準である。したがって、日本は間違いなく、この基準を満足しているので、民主主義国家である。一 方、プラトンの考えを不用意にそのまま現在の民主主義に適用すると、「民主主主義の成功のためには、国民の有権者全体が知的教育を受けられること、恐怖や怒りなどの感情、個人的な利害、マスコミによ る情報操作や扇動などに惑わされず理性的な意思の決定ができる社会が不可欠である。つまり徳を持つことである。逆の言い方をすれば、民主主義を無条件に広めると、知的教育を受けていないもの、恐怖や怒りなどの個人の感情や利害損得に影響されやすい非理性的なものも有権者(政治家と選挙民)となり、結果として衆愚政治となりかねない危険がある」ということになってしまいかねない。この点からすれば、おおよそ世界の民主主義国家と考えられている国家は、すべて衆愚政治に陥っていることになる。したがって、現在の民主主義において、プラトンの哲人政治というか強い政治を望む声も出てくるようなことになる。マスコミ亡国論などというものも衆遇政治を忌避するところからでてくる。しかし、これらは間違っている。

 では、プラトンの考えは間違っているのではないか? そうではない。そうではなくて、古代ギリシャのが現在の民主主義国家基準に合わないだけのことで、当時の政治活動からすればプラトンの政治哲学が必ずしも間違っていた訳ではない。間違っているのは、プラトンの政治哲学を不用意にそのまま現在の民主主義に適用することなのである。しかし、現在、プラトンの哲人政治を望む声もなくはないので、私があえて「プラトンの民主政治の考えは間違っている」と言うことをお許しいただきたい。

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