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2014年9月18日 (木)

霊魂の哲学と科学(その64)

霊魂の哲学と科学(その64)
第8章 「神」はどこに存在するのか?(4)

第2節 エゾイタチの神(2)

「エゾイタチの神」の神話にもいろいろな「野生の思考」(古代の人の考え)が見られ、いろんな側面からその理解を深める必要があるが、ここでは焦点を この神話の語る心髄部分 に絞って、「神というものは人間あっての存在である」という「野生の思考」を科学的にどう理解すべきなのか、それを私の「リズム人類学」の観点から説明することとしたい。

先に触れたが、シェルドレイクの「形態形成場」という科学の世界で画期的と言われる科学的仮説があるが、それについて私は、先に、皆さんにも判り易い比喩を使って説明した。すなわち、『 岩井國臣が母親の腹の中で命を授かった時,成長が始まるのだが,脳にいる岩井一、岩井二,岩井三・・・・岩井九十九と宇宙にいる岩井一、岩井二,岩井三・・・・岩井九十九とが、それぞれ共振あって,それらの合成の結果,岩井100の固有振動が卓越してくるのである。最終的は,岩井100の波動が形態形成場で支配的となり,岩井國臣が誕生する。』・・・と。
脳の中にも波動があり宇宙にも波動があるのだが、私は脳の中の波動を「内なる神」と呼び宇宙の波動を「外なる神」と呼んでいる。「内なる神」の存在については、第一章で必ずしもうまく説明できていないかもしれないが、私たちの身体の中に間違いなく「内なる神」は存在するのである。そのことについては、村上和雄と棚次正和共著の「人は何のために<祈る>のか」(平成22年12月、詳伝社)を是非読んで確信をもっていただきたい。「内なる神」は存在するのである。

 しかし、ここで問題にしているのは「外なる神」である。「エゾイタチの神」という神話でいうところの「天にまします神」のことである。「天にまします神というものは人間あっての存在であるかどうか?」ということである。普通、神という存在は超越的な存在だと考えられている。だから神というものは畏敬の念をもって祈らなければならないと誰もが考えているのである。しかし、「エゾイタチの神」という神話では、「そうではない。神と人間とは対等である。 人あっての神であり、神あっての人であれば、助けあい、教えあって暮らしたいもの。」と言っているのである。私は、先に、『 脳の中にも
波動があり,宇宙からの波動が脳に及んでいる。だとすれば、脳の中では,内からの波動と外からの波動が共振を起こすだろうということは容易に想像できることだ。』と言ったが、この神話の語るところによれば、『 宇宙の中にも波動があり,脳からの波動が宇宙に及んでいる。だとすれば、宇宙の中では,外からの波動と内からの波動が共振を起こすだろう。』という言い方もできる筈である。本当にそうなのか?科学的にそう言えるのか?ここではそのことを考えてみたい。

 「祈りの科学」シリーズ(1)の第13章で、「祈り」というものの摩訶不思議な効果について説明した。密かにその人の病気回復を願って祈れば、その人は回復に向うことがあり得るのである。岸壁の母のように、子供の無事を必死に祈っていれば、その願いは子供に通じるのである。「祈り」は相手に通じるのである。上記の「人は何のために<祈る>のか」という本には、いろんな事例が掲載されているので是非ご覧いただきたいが、植物も人間の「祈り」の声を聴いているらしい。祈りの相手は動物でも植物でもあっても「祈り」の効果はあるらしい。願いは相手に通じるのだ。そのことを科学的に説明すると
なれば、以下のような言い方になる。

 私たちの心には「内なる神」が存在する。「祈り」によって「内なる神」に振動が起るか、その波動の振動が「外なる神」が持つ固有の波動と共振を起こす。波動の共振が起るということは「外なる神」から新たに強い波動が発振されるということに他ならない。
「外なる神」から新たに発振される波動によって、私たちの「祈り」による願いが、相手に通じるのである。つまり、「外なる神」を介して私たちの「内なる神」から発振された波動によって、相手の「内なる神」が共振し、相手の遺伝子がスウィッチオンされるのである。私たちの「祈り」によって、神の力が発揮される。そういう意味では「神というものは人間あっての存在である」。

 こういったことを敷衍(ふえん)して考えると、神の怒りというものも考えねばならない。生とし生きるものはこの地上で生きるための活動をしているのだが、人間だけが自然を破壊し、とんでもない悪知恵を働かし、世の中の秩序を乱している。人間の行動には自ずと「作法」というものがなければならない。「エゾイタチの神」の神話が語るように、その人間が「作法」を忘れて傍若無人なことを行う時、神の怒りが落ちて来る。私はシカの神やサカナの神の怒りももっともだと思う。
 ところで、人と他の動物との違いは何か?「祈り」をできるのは人間だけである。私たちは「祈り」の生活を生きなければならないのではないか。私は、「人間は太陽の子供である」と思う。太陽に感謝し、自然の恵みに感謝し、人々の幸せを祈りながら日々の生活を過ごすことが大事ではないか。

 祭りは村の人々の安寧のためになくてはならない。除災だけでなく人々の連携(団結、共生、共同、恊働、協和)が必要である。そのために村の祭りを真剣にやって、神に祈らなければならない。「我語る故に我あり」というのは中村雄二郎のリズム論だが、私のすすめる「リズム人類学」では「我祈る故に我あり」ということになろうか。
 天皇は祈る人である。私たちも天皇に習って国民の幸せを祈らなければならない。自分の幸せ、親や子供の幸せ、友達の幸せ、地域の人々の幸せ、みんなの幸せ、世界の平和を祈らなければならない。そういう生活を送りたいものだ。

さて、以上の「エゾイタチの神」という物語は、次のような語りから始まる。
そらには、五つの空があるのだよ。
いちばん低い空を 切りの空
その次の空を かかっている空
その次の空を 星をささえる空
その次の空を 高い雲の空
その奥の空の果てを いちばん高い空
そこには、鉄の城があり、鉄の塀をめぐらして、鉄の門が立っている。そこにすべての神々の中でも、いちばん偉い神が住んでいるのだよ。
さて、エゾイタチの女神は、低い空を守る神だった。

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